2015年12月16日水曜日

<話題> 苗字研究家が考える「夫婦別姓」 〜最高裁判決を解説する〜

 みなさんこんにちは。お久しぶりです。ちょっと、諸事情で更新が止まっていましたが、復活しました(^^


 さて、今日は、先日よりニュースになっていた


 夫婦別姓を認めないのは、違憲かどうか?


の最高裁判決がありました。


 ニュースなどはこちら

 NHKニュース 夫婦別姓認めない規定 合憲判断
 http://www3.nhk.or.jp/news/html/20151216/k10010343011000.html



 さて、最高裁判決は、


「夫婦が一つの姓を名乗るのは、合理性がある」


というもので、結果として夫婦別姓を認めないことを合憲とするものでした。


==========

 で、この最高裁判決がどうなるかについては、当ブログでも予言しておりまして。 

 その記事がこちらです〜。


<話題>夫婦別姓 最高裁判決を予言してみる! ~姓氏家系研究家がみた「夫婦別姓」問題~

http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2015/02/blog-post_20.html

 

 はい。ここにも書いていたとおり、日本の戸籍制度は「父という枠、母という枠、子という枠を家族という箱」に入れて管理することにしています。

  これは、近代国家が民主主義社会において運用している「個人の人格や人権」とはまた別の管理方式であり、あまり個人の概念については、この枠や箱には組み込まれていません。

 

 そのため、同姓同士が「父という枠、母という枠に入っても構わない」(同姓同士の結婚が認められた)し、養子のように、DNAに基づかない親子関係が認められるようになっているわけです。

 

  こうした形は、民法上は明治になってからの規定ですが、実際には戦国時代あたりから、こうした形が運用されるようになっていた、と姓氏家系研究家である大塚某は見ています。

 

 家という箱は、徳川家や、伊達家、黒田家のような当主とその家臣団にも似ています。こうした「家」の概念は、戦国時代から現代まで、実は連綿と続いているわけです。

 

==========

  もし、日本で夫婦別姓を実現するためには、現実の運用上必要な住民票レベルでは、けっこう早く対応できると思いますが、戸籍制度のほうは、かなり改変を要するものと思います。

 欧米で夫婦別姓が実現しているのは、すでに「個人」の概念で市民管理制度が運用されているからで、「家」という箱概念を重視する日本では、そこからひっくり返さない限り、難しいということになるのでしょう。

 

 たとえば、こういうことです。

 

 「どこそこに住んでいるAさんという個人」を管理することを積み重ねるのであれば、夫婦別姓は可能です。AさんのDNA上の父はBさんで、DNA上の母はCさんだけれども、それらは血縁上だけ重要なのであって、市民生活上はどうでもいい、というのが個人主義的な管理方法です。

 

 ところが、日本では実態も運用も違います。管理は「家単位」でなされているので、「Bさんという世帯主がいて、その配偶者がCさんで、こどものAさんはこの家のこどもである」という形で管理されているので、行政がこの家族にアクセスするのもまずは世帯主Bさん宛になるし、学校に通わせる義務もBさんにあるし、こどもであるAさんは結婚するまで独立した戸籍を持てないのです。 

 

 ちなみに、今、上の例を読むとみなさんは普通の3人家族を思い浮かべるでしょうが、実体としては、BさんとCさんは再婚同士で、Aさんは養子で入った子という設定でも、Bさんは男性で、Cさんは性別変更した元男性で、AさんはCさんの連れ子という設定でもおなじなのです。

 

 つまり、やっぱり日本では「父という枠、母という枠、子という枠」にあてはめて物事が遂行されていることがわかるのです。

 

==========

 

 ところで、姓氏家系研究の上では、「夫婦別姓」は反対すべき制度なのか、と言われれば、けしてそうではありません。


 夫婦別姓も、ちゃんと、姓氏家系と名字の成り立ちの上では、忘れてはいけない概念なのです。


 古い時代の苗字・本姓の例を挙げる時に


「源平藤橘」

 

 という言葉を使うことがよくありますが、これは、日本人のルーツを辿ると、

 

源氏・平氏・藤原氏・橘氏

 

が源流になっている家が多いよ、ということで代表的な4つの姓として取り上げられるわけです。


 このうち、橘氏の成り立ちがおもしろいのです。


 橘氏というのは、

 

 Wikipediaより、橘氏 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E6%B0%8F

 

県犬養三千代という女性(奈良時代の女官)が、元明天皇から「橘宿禰」の姓をもらったことに始まります。

 

 県犬養というのが彼女のお父さんの名字で、なので、

「県犬養さん家のみっちゃん」

が、”橘みっちゃん”になるわけです。

 

で、この橘三千代さんは、 藤原不比等(あの中臣鎌足の二男で、いわゆる藤原氏の祖)の後妻になるわけですが、不比等と三千代の子は当然、「藤原氏」ということになりますね。

 

 でもでも、そうすると、橘氏は存在しないことになりませんか?

  だって、三千代は藤原不比等の嫁で、子供は藤原なんだから、橘姓を名乗る者がいないじゃん!ということになりますね。これは変です。


 実は、みっちゃんは、不比等の後妻になる前に、美努王という皇族の王子様と結婚しており、その時に「葛城王」という王子様が生まれていたのです。

 この王子様は皇族ですから、もちろん最初は名字がありません。ところが、彼がのちに臣籍降下して「苗字を必要とするようになった」時に、源氏でも平氏でもなく、


 おかんの名字である橘を名乗って、”橘諸兄”となる


のです。ちなみに彼は大伴家持の友達ですので、万葉集には彼の歌がよく出てきます。



 この橘さんの話を読み解くと、古代の「夫婦別姓」の様子がなんとなく見えてきます。


 まず、みっちゃんは、藤原不比等さんと結婚したものの、実は「藤原のみっちゃん」にはならずに、最後まで「橘三千代」だったことがわかっています。


 そう、みっちゃんは夫婦別姓だったのです!!!!


  夫、藤原不比等。妻、橘三千代。と思えば、夫婦別姓でなかなかカッコイイじゃありませんか!

 しかし、子供は「父の苗字を名乗る」のが一般的だったようですね。なので、不比等と三千代の子は「藤原姓」になっていました。


 でも、母の姓というのもそれなりに重要だったので、再婚前のお兄ちゃんたちは、(もともと姓のない皇族だったことも関係あるのですが)


おかんの苗字を名乗るぜマミー!!


ということになりました。

(意外に、これは現代でもありますね。山田さんと結婚した鈴木さんという女性が、離婚して子供は生まれたときの姓は山田なのに、鈴木姓を名乗る、みたいな)



==========

 というわけで、古代と現代はちょびっと違うところもありますが、日本の歴史を振り返れば


 夫婦同姓も歴史が長いし、夫婦別姓も昔はあったんだぜ


ということが学べます。以上、今後のご参考に(なんの参考やねん)


2015年11月14日土曜日

<話題>全く新しいオリジナルサービス!「あなたが生まれるまでの1000年の物語」を歴史教科書に!

 おかげさまでココナラさんでやっているサービスがみなさんに評価され、エキスパート認定を受けることができましたが、今回はそれを記念して新しいサービスを開始しました!



あなただけの「日本史」教科書を作成します ~あなたが生まれるまでの1000年の物語~





 なんと!世界にひとつだけの「あなただけの日本史教科書」を書いてしまうという、暴挙です(^^;


 御祖父さま、御祖母さま、お父様お母様の旧姓をお教えいただくと、可能な限りルーツを遡って、それぞれの家の歴史と日本の歴史をかみ合わせながら


「あの、中学高校で使ったような教科書風」


の書物(PDFファイルです)にしてお届けするという、人類史上初のサービスが出来上がりました。



年頃のお子さんにプレゼントして、歴史の授業に興味を持ってもらったり、あるいは「自分がなぜ生きているのか」のヒントを得たり、いろいろなあなた自身の発見があると思いますよ。


価格は1000円です。


※最新価格は、ココナラさんでお確かめください!



ご興味のある方は、一度お問い合わせくださいませ。



☆もちろん、ルーツがはっきりわからない。判定できないという場合もあろうかと存じます。その場合は、わかったところまでをきちんとご報告します。




 

2015年11月4日水曜日

<話題>日本で最も古い家へ行ってみた!

 こんにちは。

 昨晩は、あの伝説的番組「学校へ行こう!」の同窓会編とも言うべき2015年版が放送されていましたが、ネットでもかなり話題だったようです(^^


 もちろん、学校へ行こう!といえば、出演者のV6があんなことやこんなことをして学生生活と絡んでいくという番組なのですが、ちゃんと


 岡田官兵衛ネタ


も随所に仕込んであり、当ブログでもみっちり追いかけていた官兵衛ちゃんが再び見られて大変うれしゅうございました。


 ちなみに、ジャニーズには、「イケメンなのに残念な2大巨頭」というのがおりまして、1人が長瀬くんで、もう1人が岡田くんであります。


 どちらも、完全にそうは見えないのに、かなりおバ○で有名で、そのエピソードの数たるや枚挙にいとまがないそうなのですが、昨日の岡田先生も、かなり残念振りを発揮なさっていましたね(苦笑)


 大軍師や、大教官よりも、やっぱりひらパーにいさんが最もしっくりきそうな、岡田准一さまでございました。



========

 さて、そんな岡田君、いや黒田官兵衛どのを体感できる「同時代ツアー」を敢行して参りましたので、レポートです。


 同時代ツアーとは、その名のとおり、官兵衛が生きた時代を体感できる旅でございます。



 今回、旅して来たのは、旧国名で言えば摂津ではありますが、現代の三木市にほどちかい神戸市北区の山田町は


「箱木千年家」


です。ババーン。


 


 場所は、新神戸トンネルの北側出口から車で十数分といったところですが、なんと室町期から建っているという



 日本で一番古い家(国指定重要文化財)


なのですよ、この箱木家は!!


 ウィキにもあるよ
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%B1%E6%9C%A8%E5%AE%B6%E4%BD%8F%E5%AE%85



 さて、このおうち。大同元年という「棟上の記録」が残っているため平安時代からあるという


 千年家


と呼ばれていますが、現在の建物に残る6本の柱は、移築解体の際に


 室町時代からのもの


だと推定されています。






 ↑中から外を見ると、頭がぶつかりそうなくらい深い軒。






 ↑戦国期大河ドラマに出てきそうな、板の間づくり。注目は、床板です。




 まだ、「かんな」が発明されていないので、床板は槍鉋(やりがんな)で削られており、完全に平面にはなっていません。


 荒い板を、槍の曲がったような道具でちょこちょこ削って大きな平面を作っていったのです。






 ↑官兵衛ちゃんの時代の息吹を伝える、「柱」。角が大きく面取りしてあるのが特徴で、古い時代ほどこの面取り巾が大きいそうです。

 (これもチョウナで”はつって”いったものと思われる)




=========

 さて、そんな箱木家住宅ですが、いまでも管理は子孫の「箱木一族」が担当しておられます。


 


 古いよろいなども展示されていて、箱木一族の「戦国武将」→「帰農して豪農」→「旧家として今へ至る」歴史がよくわかるというものです。



 というわけで、ここからは箱木氏と官兵衛ちゃんの同時代体感話をいくつかお届けしましょう。



 展示してある系図には、なかなか興味深いことが書いてあります。


 

 
 箱木一族は、もともとからこの摂津国山田庄に根付いた一族だったようですが、この建物がバリバリの現役だったころ、


 そう、つまり官兵衛ちゃんの時代


には、箱木氏は、あの別所氏に従っていました。(摂津国とはいえ、三木城はけっこう近い)


 そのあたりの息吹が感じ取れる、上の系図をデジタル変換して読みやすくしてみましたよ!





 どうだ!これで読めるでしょ?!(加工は大塚某)


『属 三木城別所氏 天正五年四月一日~』 からはじまって、『同年羽柴筑前守秀吉 播国府御着城小寺加賀守ヲ攻むる時~』



 出ましたね~。


 ここらへんで赤鼻のトナカイとあぶない刑事が脳裏に浮かんでくるというものです!!


 
 右半分には、箱木与一左衛門が、別所長治に従っており、戦死した話が書いてあります。



 いっぽう左半分は、さらに興味深いです。


『箱木與一郎 藤徳 母は別所大和守村重の女(むすめ) 藤徳は人質となる為三木城内に入り~』

『別所長治君自殺し後、秀吉の命に依り 三木篭城の諸士退散』

して、衝原館にやってきたというわけ。


(箱木千年家は山田町衝原にあります)



 まさしく、大河ドラマでみた、あのシーンの一部ですね。


 箱木氏は、三木城で官兵衛軍と相対していたのでしょう。


 その頃から建っている住宅を現代でも見られる、というのは凄いことだと思います。



 
 この地域は、秀吉が直轄した有馬温泉や、当時有馬氏が支配した淡河地域などとも隣接しており、戦国の息吹がそこかしこに眠っています。


 神戸近辺の方はぜひ、一度遊びに来てくださいね。

2015年11月1日日曜日

<話題> ココナラエキスパートに認定されました。 苗字・名字を研究しています。


 更新お久しぶりです。

 大塚氏に関する研究は、現在大物が出ていないのでひそかにやってます(^^


 その分、他の名字・苗字に関わる研究や分析をやらせていただいており、全国各地のあらゆる苗字・名字・氏族・お名前について調査をしているところです。


 ココナラというサイトで、依頼を受け付けておりますが、おかげさまで今回、私大塚某のサービスが

”ココナラエキスパート”に認定されました!!


 ココナラ

苗字・名字の由来と先祖探し・ルーツ探しのアドバイスをします 

  https://coconala.com/services/41874



 本来、氏族のルーツを探るというのは膨大な手間と費用がかかるのですが、なんと私のサービスは


540円


という驚愕の値段でやっております(笑)


 というのも正式な氏族のルーツ探しは、


①戸籍謄本を可能な限り取得する。

②墓石や寺などの情報を集める。

③親戚・関係者などから話を聞く。

④土地台帳などの資料を取得する。

⑤おなじ名字の情報について図書館などで調べる。


などの調査をひとつひとつ丹念に実施してゆくので、日当だけで十数万円から数十万円かかるのですが、


(仮に10日間、親戚周りと図書館通いをしただけで、日当1万円なら10万円、というわけ)


私大塚某の調査は、


⑤について、地域とネット上のデータ、図書館等の資料を探す


というところに特化してやりますので、たった500円&最速1日で結果が判明するのです。



 これまで数多くの方に喜んでもらっておりますので、ご自身のルーツについて興味のある方はぜひ一度ご利用ください。



 というわけで、たまには宣伝でした!

2015年10月18日日曜日

<姓氏家系>完全網羅 苗字 筑紫姓・筑紫氏・筑紫さんのすべて! 全筑紫氏族 由来・ルーツ 超まとめスペシャル

 今回の記事は、九州少弐系の氏族を中心としながら、横の広がりを調査するためにまとめたものです。

 全国の筑紫氏・筑紫さんにまつわる先祖のルーツを完全網羅しています。

 抜けているもの、未調査のものは、随時加筆しています。(最終更新 2015.10.18)


☆個別の御家のルーツについてより詳しく知りたい方は、記事下部の
「苗字・名字の由来と先祖探しのアドバイスをします」
よりご依頼ください☆



==========


★ 参考文献 ★

 今回のリスト制作に当たっては、以下の参考文献を元に作成した。

 ① 「寛政重修諸家譜」 索引ならびに影印本 近代デジタルライブラリー 国立国会図書館

    http://kindai.ndl.go.jp/

 ② 「家紋でたどるあなたの家系」 千鹿野茂  八木書店

 ③ 「続・家紋でたどるあなたの家系」 千鹿野茂  八木書店

 ④ 「姓氏家系辞書・姓氏家系大辞典」 太田亮 近代デジタルライブラリー版

 ⑤ 「日本の苗字7000傑」  http://www.myj7000.jp-biz.net/
 

==========


 今回のリストは、上記参考文献を元に、全国各地に散らばる「筑紫姓」「筑紫氏」について、なるべく重複を避ける形でわかっていることを列記したものである。

※ 寛政譜に記載のある場合、数字においては【八木書店版】「寛政重修諸家譜」の巻数を表す。

【  】内についてはわかるかぎりの家紋を示した。


==========


A  筑紫氏  筑前国御笠郡筑紫村より。藤原氏長家流。寛政譜5 【黒餅】

B  筑紫氏  武藤少弐系。筑紫尚重より。【寄り掛け目結】

C  筑紫氏  姫姓文帝の末裔、高向氏より筑紫氏。詳細不明。

D  筑紫氏  物部氏流の末羅国造、矢田稲置命の末裔。詳細不明。



そのほか、筑紫姓の家紋では

【十六葉菊】
【八つ日足】
【目結】
【つなぎ四つ目】



を用いるものがある。


 この他は現在調査中。

==========


<告知です>

500円でなんでも頼めるココナラにおいて「苗字・名字の由来と先祖探しのアドバイスをします」というサービスを開始しました。

 https://coconala.com/services/41874


みなさんの「名字・苗字のルーツ調べ」をさくっとお手軽にお手伝いいたします。

詳しいサービス内容は上記リンクをご参照ください。


既に何件かサポートさせていただきましたが、喜んでいただいております(^^


あなたも歴史ミステリーの扉を開いてみませんか?!


==========

<特集で紹介されました~>

「こんなの見たことない!」ワクワクするユニークなサービスまとめ

http://coconala.com/featured/entry/4372



==========

<新サービス開始>

「戦国武将・歴史上の人物に出会う旅! ~あなたと偉人を繋げます~」

https://coconala.com/services/47988



==========

2015年10月17日土曜日

<姓氏家系>完全網羅 苗字 志賀姓・志賀氏・志賀さんのすべて! 全志賀氏族 由来・ルーツ 超まとめスペシャル

 今回の記事は、九州少弐系の氏族を中心としながら、横の広がりを調査するためにまとめたものです。

 全国の志賀氏・志賀さんにまつわる先祖のルーツを完全網羅しています。

 抜けているもの、未調査のものは、随時加筆しています。(最終更新 2015.10.17)


☆個別の御家のルーツについてより詳しく知りたい方は、記事下部の
「苗字・名字の由来と先祖探しのアドバイスをします」
よりご依頼ください☆



==========


★ 参考文献 ★

 今回のリスト制作に当たっては、以下の参考文献を元に作成した。

 ① 「寛政重修諸家譜」 索引ならびに影印本 近代デジタルライブラリー 国立国会図書館

    http://kindai.ndl.go.jp/

 ② 「家紋でたどるあなたの家系」 千鹿野茂  八木書店

 ③ 「続・家紋でたどるあなたの家系」 千鹿野茂  八木書店

 ④ 「姓氏家系辞書・姓氏家系大辞典」 太田亮 近代デジタルライブラリー版

 ⑤ 「日本の苗字7000傑」  http://www.myj7000.jp-biz.net/
 

==========


 今回のリストは、上記参考文献を元に、全国各地に散らばる「志賀姓」「志賀氏」について、なるべく重複を避ける形でわかっていることを列記したものである。

※ 寛政譜に記載のある場合、数字においては【八木書店版】「寛政重修諸家譜」の巻数を表す。

【  】内についてはわかるかぎりの家紋を示した。


==========


A  志賀氏  丹波氏族「志賀」姓、のちに吉田氏。近江国滋賀郡志賀に住んだ。近江国清和源氏頼光流 寛政譜5 【向こう梅】【五七桐】【十六葉八重菊】

B  志賀氏  近江国より起こる。宇多源氏佐々木氏族 寛政譜19 【丸に五葉根笹】【蔦】【四つ目】

C  志賀氏  清和源氏義家流 寛政譜2 【七葉根笹】

C'  志賀氏  義家流新田支流山名氏族。海老名・南条・渡辺と称し、のち志賀。【向こう梅】【丸に三つ梅】

D  志賀氏  豊後国大野郡志賀より。藤原氏秀郷流大友氏族 【抱き杏葉】  

E  志賀氏  後漢光武帝裔氏族、劉姓志賀氏(坂上氏系列) 詳細不明

F 志賀氏  天智天皇末裔、施基親王より志賀氏 詳細不明

G 志賀氏  後漢献帝裔大友皇子より志賀氏。 詳細不明。

H 志賀氏  武藤少弐流 少弐経資の子、志賀時経(あるいは経秀)から始まる。【寄掛目結】 



そのほか、志賀姓の家紋では


【沢瀉】
【柏】
【雁金】
【五三桐】
【十文字】
【三本杉】


を用いるものがある。


 この他は現在調査中。

==========


<告知です>

500円でなんでも頼めるココナラにおいて「苗字・名字の由来と先祖探しのアドバイスをします」というサービスを開始しました。

 https://coconala.com/services/41874


みなさんの「名字・苗字のルーツ調べ」をさくっとお手軽にお手伝いいたします。

詳しいサービス内容は上記リンクをご参照ください。


既に何件かサポートさせていただきましたが、喜んでいただいております(^^


あなたも歴史ミステリーの扉を開いてみませんか?!


==========

<特集で紹介されました~>

「こんなの見たことない!」ワクワクするユニークなサービスまとめ

http://coconala.com/featured/entry/4372



==========

<新サービス開始>

「戦国武将・歴史上の人物に出会う旅! ~あなたと偉人を繋げます~」

https://coconala.com/services/47988



==========

2015年10月10日土曜日

葉隠(はがくれ)を悟る。 〜武士道と云うは、死ぬことと見つけたり〜

 みなさまおひさしぶりです。


 全国の大塚氏に関する考察はちょっとお休みをいただいておりまして、なんせ仕事やプライベートで忙しく落ち着いてから再会しようと思っております。

 といいながら、日々あっちやこっちの文献を見たり、考え事をしたりするのは続けているのでご安心ください。

 ただ、新しい発見や、それをまとめる時間がないというか・・・(^^;;


==========

 さて、そうした資料をいろいろ読み漁るうちに、私の中で「ストンと腑に落ちる」体験があったので、今日はそのお話を。


 そうです。大塚氏について調べることはすなわち戦国の世の武士の生き様を調べることとほとんど同義なのですが、武士道といえば鍋島佐賀藩に伝わるかの有名な


 葉隠


です。


一般には「武士道と云うは、死ぬことと見つけたり」で有名な武士の心がけをまとめた葉隠ですが、



 ようやく、これが何を意味しているのか。何がいいたいのか悟った。


のであります!(笑)


 解脱ですよ解脱!まさに、目からうろこが落ちるように、ユーレカ!と叫ぶようにビビビと来てしまったこの「葉隠を悟る」体験。


 というわけで、今回は、佐賀藩秘伝の書といわれた葉隠の真の意味を知る旅へとみなさまを誘ってまいります。



==========

 さて、”武士道”といえば、一般の人は、なんとなく江戸時代の武士の考え方や哲学のようなものをイメージすると思いますが、厳密にいえば「葉隠」が指し示している武士道と、いわゆる一般論の武士道とは意味合いが異なることを最初に押さえておかなくてはなりません。



 専門的な言い方をすれば、その違いは「中世の武士道」と「近世の武士道」という大枠で比較をするのですが、これは簡単にいえば


「儒教が取り入れられる前の武士道」と「儒教が取り入れられてからの武士道」の違いであり、また「実戦・戦争を想定した武士道」と「実戦を伴わない武士道」の違いでもあります。



(もちろん、葉隠の原作者山本常朝は、すでに後者の武士道が蔓延している時代の人間であるため、その境界がすこしあやふやになっているところがある部分は否めないが)



  葉隠はいうまでもなく、前者の武士道です。一般的に私たちがイメージする武士あるいは武士道は、


「ストイックで、かつ仁義に篤く、自らの行為に責任を持つ生き方」(←個人として)

&

「上位の者に対する忠義と孝行の気持ちを持ち、死をも厭わない生き方」(←組織人として)


というものであろうと思います。


 たしかに、この前半部分は、戦国期の武士道でも相通じるものがありますが、後半部分のニュアンスが少し異なることを忘れてはなりません。


 「上官の命令にしたがう」とか「殿に忠義を尽くす」とか、「切腹を命じられたら受け入れる」とか、そういう思想は、江戸時代になってから幕府が中国から輸入した新宗教である

「儒教」

の思想によって生じたものです。


 中世の武士道は、そうではなく、鎌倉幕府&源頼朝以来の


「御恩と奉公」


によって、理論化されています。

 御恩とは、鎌倉幕府や上位の者から与えられる恩賞=基本的には土地、です。つまり
武士は、土地の支配権を認めてくれる上位者に対して、奉公=忠節を尽くす、のです。


 日本中で築城の名人と言われた戦国武将・藤堂高虎は「主君を7回変えなければ武士ではない」と言ったといいますが、このニュアンスが中世の武士道に通じます。


 報奨を約束する主君に対して精一杯働くことが武士道であって、逆にいえば


「褒美をくれない主君は、その時点で捨てろ」


ということでもあるわけです。


 このあたりの感覚を理解すれば、中世の武士道が現在思われている武士道の感覚よりも
、どちらかといえば


「傭兵」とか「ゴルゴ13」とかに近いハードボイルドなもの


であることが伺い知れるというものです。


 大河ドラマ「軍師官兵衛」でもしつこく繰り返されていましたが、


「本領安堵してくれるかどうか」が常に重要


なのは、こういうことを意味しているのです。



==========

 ところが、戦国武士道における主君と家臣の関係が、「報償と本領安堵を基軸通貨にしたドライでストイックなもの」だったとしても、それがなぜ


”武士道とは死ぬことと見つけた”


につながるのでしょうか?


 葉隠全編を読めば、この「死ぬ」という言葉は、ある種の「精一杯生を全うする=生きる」ことと密接に関連していることがわかるのですが、

「死を覚悟して生きろ」

みたいな表面的なものだけではないことは確かです。


 作者山本常朝が、葉隠の精神としてバックグラウンドに持っていたものはどういうものなのか。

 そして、なぜ葉隠が「佐賀藩士によって書かれ、佐賀藩において禁書扱い」だったのか。

 この辺には、かなりおもしろい事実が隠れているように思えるのです。



==========

 さあ、結論へと筆を進めましょう。結論からいえば、現代人は「葉隠」だけを読んでもその根底に流れる基本哲学は理解できません。


 ましてや、武士道において「死ぬ」の本意について直感的にわかることはないと思われます。


 では、どこにそのヒントがあるのか。


 今回、大塚某は研究のために佐賀藩にまつわるいろいろな資料を読みましたが、


「北肥戦誌」「歴代鎮西志」「歴代鎮西要略」の3資料を読んでから葉隠を読まないといけないことがやっとわかったのです。


  少なくとも、「北肥戦誌」を読んでみて、それから「葉隠」を読むと、武士道の本質がまるで釈迦が解脱するかのようにビビビと体感できるのです。



==========

 一体どういうことか。


 このブログでも「北肥戦誌」講読の回を設けてきましたが、あの書物は単なる「歴史を書いた書物」ではありません。一般的に「軍記物」と言われるジャンルの資料ですが、ただの「戦の記録」でもないのです。

 
  一度でも「北肥戦誌」を読んだことがある人は、すぐ気づくと思いますが、

 「こいつは一体誰やねん!」

という名もなき武将や雑兵の名前がとにかく何百人単位で出てきます。中堅の武将だけでなく、時には足軽に近い人物の名前も物語にきちんと登場します。


 どうして歴史や戦いの記録に、逐一関係者全員の名前を挙げて書き付けねばならなかったか、これが大きなポイントです。


  そうです。「北肥戦誌」の最終目的は、歴史物語ではないのです。


”どこの誰それという家臣が、どういう戦いぶりをして死んでいったか”


を明確に記録するのが目的であると考えられるのです!!


 なぜ、それが重要なのか。答えはひとつです。

 その子孫が、佐賀藩において「先祖が功績を挙げたことを確認し、それについての恩賞を与え適切な処遇をしてもらえるように」ということです。


  変な言い方をすれば、軍記物語とは、「子孫のための先祖の成績表」と言ってもよいかもしれません。

 まさに、「御恩と奉公」という中世的主君家臣関係を如実に受け継ぐものであるわけです。


==========

 しかし、まだ「成績表と死」の関係性が見えてきませんね。そこで、私の先祖と思われる大塚隠岐の動きを追って考えましょう。


1)大塚隠岐は、神代長良の家臣として土生島城の戦いで、長良を逃す働きをした。

 この働きについては記録され、逆にここで死んだという記録はされていない。



2)大塚隠岐は、その後長良が龍造寺隆信家臣になったのに伴い、龍造寺軍下に合流した。



3)大塚隠岐は、 三潴地域のある村に所領をもらい、そこに駐屯したがその間に隆信が死に、龍造寺軍は佐賀へ撤退した。



4)取り残された大塚隠岐は、所領に居座る間に秀吉軍の侵攻を受け、武装解除され帰農した。



 そして、その土地に子孫が居続け、私につながるわけですが、隠岐が死なずに生きつづけたことはすなわち「武士から帰農し、おまけに隣の国で漫然と暮らし続けた」ということと如実に関係しているわけです。


  それは、まさしく大塚隠岐という武将が「武士道を失った」ことに相違ありません。



==========

 軍記物語において、「死が記録される」ということは武士としての功績が永遠に記録され、主君に認められることに他なりませんでした。

 そして、その功績によって、子孫は死んだ本人になり変わって御恩を享受することができたわけです。


 武士の死とは、そういう側面がありました。


 逆に生き続ければ、主君との関係は現在進行形で続くか、あるいは帰農して失われるかのどちらかになってしまうわけです。


 そこには、「漫然と生きたことで、功績もなくただだらだらと生き延びたのみ」であるという職業的不完全・未達成が残ることになります。


 それを現代風に言い直せば、「死を覚悟して生き抜いたかどうか」というニュアンスになるわけですが、中世的価値観では、もしだらだら生きたのみで功績を挙げなければ、


「所領は誰かほかの家臣に与えられてしまうかもしれない」


という恐怖を孕むものであったでしょう。それは、もちろん、本人にとってというより、子孫にとっての恐怖でもありました。


==========

 ここまで思いを馳せたときに、葉隠の云う


「武士道とは死ぬことと見つけたり」


の真意が、大きな波となって私の胸を打ったのです。



 太平洋戦争では、この言葉が曲解され「天皇のために死ね」という意味で用いられましたが、本当の意味でもし使うのだとすれば、


「国のために死んだ兵士の子孫が、子々孫々まで安心して暮らせる報償を国は与えたのか?それを与える覚悟で死を差し出させたのか!」


という国家の覚悟を問いかけるものであったということに気づいて愕然としたわけです。


 少なくとも、中世的武士道では、これはそういう意味なのです。


「我々は国に奉公する、しかし、それは国よりのご恩(所領と身分の安堵)の約束が前提であり、それが報いられないのであれば、国は主君ではない!」

 ということです。


  私たちは、たとえば自衛隊員の子孫末代までの生活を保証する気概を持って、彼らを送り出せるでしょうか?その一票を投じることができますか?


 これは、考えれば考えるほどものすごい思想です。



==========

 よく一般的に歴史の授業で、日本人はその昔


「やあやあ我こそはどこの誰であるぞ!」

と名乗りながら戦をした、という話を聞いたものですが、なぜそれが必要だったかはもう明白ですね。

 その功績をもって、子々孫々に対して恩賞を施すためであり、またそれだからこそ、武将たちはたとえ死んでも安心して死ねたわけです。こどもたちは、安堵されるわけですから。


 しかし、銃の発明で、「誰の功績で誰を殺したか」が不明瞭になり、マシンガンや近代兵器の発明で「よくわからないものによって、大量の人が殺される」事態が生まれるようになりました。


 これを歴史的には近代戦争のはじまりとして定義するわけですが、 この時国家が国民を、主君が家臣を守り抜くという約束が失われたことになります。


  誰かが誰かを殺したという功績と、誰かが誰かに殺されたという事実がリンクしてはじめて、国家は国民と対等でいられるということは、恐ろしい話だけれども重要な視点ではないでしょうか?



 これが「武士道とは死ぬことと見つけたり」の本当の意味なのです。



 近い将来、もし戦争が起こったとして、私たちは戦士を犬死にさせるなんてことは絶対にあってはなりません。


 それは国家の責任でもあり、国家の主権者たる国民の責任であるからです。


 私たちが、この国の主権者であるならば、 戦士の子々孫々を守り抜く覚悟が求められているのです。