みなさまおひさしぶりです。
全国の大塚氏に関する考察はちょっとお休みをいただいておりまして、なんせ仕事やプライベートで忙しく落ち着いてから再会しようと思っております。
といいながら、日々あっちやこっちの文献を見たり、考え事をしたりするのは続けているのでご安心ください。
ただ、新しい発見や、それをまとめる時間がないというか・・・(^^;;
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さて、そうした資料をいろいろ読み漁るうちに、私の中で「ストンと腑に落ちる」体験があったので、今日はそのお話を。
そうです。大塚氏について調べることはすなわち戦国の世の武士の生き様を調べることとほとんど同義なのですが、武士道といえば鍋島佐賀藩に伝わるかの有名な
葉隠
です。
一般には「武士道と云うは、死ぬことと見つけたり」で有名な武士の心がけをまとめた葉隠ですが、
ようやく、これが何を意味しているのか。何がいいたいのか悟った。
のであります!(笑)
解脱ですよ解脱!まさに、目からうろこが落ちるように、ユーレカ!と叫ぶようにビビビと来てしまったこの「葉隠を悟る」体験。
というわけで、今回は、佐賀藩秘伝の書といわれた葉隠の真の意味を知る旅へとみなさまを誘ってまいります。
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さて、”武士道”といえば、一般の人は、なんとなく江戸時代の武士の考え方や哲学のようなものをイメージすると思いますが、厳密にいえば「葉隠」が指し示している武士道と、いわゆる一般論の武士道とは意味合いが異なることを最初に押さえておかなくてはなりません。
専門的な言い方をすれば、その違いは「中世の武士道」と「近世の武士道」という大枠で比較をするのですが、これは簡単にいえば
「儒教が取り入れられる前の武士道」と「儒教が取り入れられてからの武士道」の違いであり、また「実戦・戦争を想定した武士道」と「実戦を伴わない武士道」の違いでもあります。
(もちろん、葉隠の原作者山本常朝は、すでに後者の武士道が蔓延している時代の人間であるため、その境界がすこしあやふやになっているところがある部分は否めないが)
葉隠はいうまでもなく、前者の武士道です。一般的に私たちがイメージする武士あるいは武士道は、
「ストイックで、かつ仁義に篤く、自らの行為に責任を持つ生き方」(←個人として)
&
「上位の者に対する忠義と孝行の気持ちを持ち、死をも厭わない生き方」(←組織人として)
というものであろうと思います。
たしかに、この前半部分は、戦国期の武士道でも相通じるものがありますが、後半部分のニュアンスが少し異なることを忘れてはなりません。
「上官の命令にしたがう」とか「殿に忠義を尽くす」とか、「切腹を命じられたら受け入れる」とか、そういう思想は、江戸時代になってから幕府が中国から輸入した新宗教である
「儒教」
の思想によって生じたものです。
中世の武士道は、そうではなく、鎌倉幕府&源頼朝以来の
「御恩と奉公」
によって、理論化されています。
御恩とは、鎌倉幕府や上位の者から与えられる恩賞=基本的には土地、です。つまり
武士は、土地の支配権を認めてくれる上位者に対して、奉公=忠節を尽くす、のです。
日本中で築城の名人と言われた戦国武将・藤堂高虎は「主君を7回変えなければ武士ではない」と言ったといいますが、このニュアンスが中世の武士道に通じます。
報奨を約束する主君に対して精一杯働くことが武士道であって、逆にいえば
「褒美をくれない主君は、その時点で捨てろ」
ということでもあるわけです。
このあたりの感覚を理解すれば、中世の武士道が現在思われている武士道の感覚よりも
、どちらかといえば
「傭兵」とか「ゴルゴ13」とかに近いハードボイルドなもの
であることが伺い知れるというものです。
大河ドラマ「軍師官兵衛」でもしつこく繰り返されていましたが、
「本領安堵してくれるかどうか」が常に重要
なのは、こういうことを意味しているのです。
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ところが、戦国武士道における主君と家臣の関係が、「報償と本領安堵を基軸通貨にしたドライでストイックなもの」だったとしても、それがなぜ
”武士道とは死ぬことと見つけた”
につながるのでしょうか?
葉隠全編を読めば、この「死ぬ」という言葉は、ある種の「精一杯生を全うする=生きる」ことと密接に関連していることがわかるのですが、
「死を覚悟して生きろ」
みたいな表面的なものだけではないことは確かです。
作者山本常朝が、葉隠の精神としてバックグラウンドに持っていたものはどういうものなのか。
そして、なぜ葉隠が「佐賀藩士によって書かれ、佐賀藩において禁書扱い」だったのか。
この辺には、かなりおもしろい事実が隠れているように思えるのです。
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さあ、結論へと筆を進めましょう。結論からいえば、現代人は「葉隠」だけを読んでもその根底に流れる基本哲学は理解できません。
ましてや、武士道において「死ぬ」の本意について直感的にわかることはないと思われます。
では、どこにそのヒントがあるのか。
今回、大塚某は研究のために佐賀藩にまつわるいろいろな資料を読みましたが、
「北肥戦誌」「歴代鎮西志」「歴代鎮西要略」の3資料を読んでから葉隠を読まないといけないことがやっとわかったのです。
少なくとも、「北肥戦誌」を読んでみて、それから「葉隠」を読むと、武士道の本質がまるで釈迦が解脱するかのようにビビビと体感できるのです。
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一体どういうことか。
このブログでも「北肥戦誌」講読の回を設けてきましたが、あの書物は単なる「歴史を書いた書物」ではありません。一般的に「軍記物」と言われるジャンルの資料ですが、ただの「戦の記録」でもないのです。
一度でも「北肥戦誌」を読んだことがある人は、すぐ気づくと思いますが、
「こいつは一体誰やねん!」
という名もなき武将や雑兵の名前がとにかく何百人単位で出てきます。中堅の武将だけでなく、時には足軽に近い人物の名前も物語にきちんと登場します。
どうして歴史や戦いの記録に、逐一関係者全員の名前を挙げて書き付けねばならなかったか、これが大きなポイントです。
そうです。「北肥戦誌」の最終目的は、歴史物語ではないのです。
”どこの誰それという家臣が、どういう戦いぶりをして死んでいったか”
を明確に記録するのが目的であると考えられるのです!!
なぜ、それが重要なのか。答えはひとつです。
その子孫が、佐賀藩において「先祖が功績を挙げたことを確認し、それについての恩賞を与え適切な処遇をしてもらえるように」ということです。
変な言い方をすれば、軍記物語とは、「子孫のための先祖の成績表」と言ってもよいかもしれません。
まさに、「御恩と奉公」という中世的主君家臣関係を如実に受け継ぐものであるわけです。
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しかし、まだ「成績表と死」の関係性が見えてきませんね。そこで、私の先祖と思われる大塚隠岐の動きを追って考えましょう。
1)大塚隠岐は、神代長良の家臣として土生島城の戦いで、長良を逃す働きをした。
この働きについては記録され、逆にここで死んだという記録はされていない。
2)大塚隠岐は、その後長良が龍造寺隆信家臣になったのに伴い、龍造寺軍下に合流した。
3)大塚隠岐は、 三潴地域のある村に所領をもらい、そこに駐屯したがその間に隆信が死に、龍造寺軍は佐賀へ撤退した。
4)取り残された大塚隠岐は、所領に居座る間に秀吉軍の侵攻を受け、武装解除され帰農した。
そして、その土地に子孫が居続け、私につながるわけですが、隠岐が死なずに生きつづけたことはすなわち「武士から帰農し、おまけに隣の国で漫然と暮らし続けた」ということと如実に関係しているわけです。
それは、まさしく大塚隠岐という武将が「武士道を失った」ことに相違ありません。
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軍記物語において、「死が記録される」ということは武士としての功績が永遠に記録され、主君に認められることに他なりませんでした。
そして、その功績によって、子孫は死んだ本人になり変わって御恩を享受することができたわけです。
武士の死とは、そういう側面がありました。
逆に生き続ければ、主君との関係は現在進行形で続くか、あるいは帰農して失われるかのどちらかになってしまうわけです。
そこには、「漫然と生きたことで、功績もなくただだらだらと生き延びたのみ」であるという職業的不完全・未達成が残ることになります。
それを現代風に言い直せば、「死を覚悟して生き抜いたかどうか」というニュアンスになるわけですが、中世的価値観では、もしだらだら生きたのみで功績を挙げなければ、
「所領は誰かほかの家臣に与えられてしまうかもしれない」
という恐怖を孕むものであったでしょう。それは、もちろん、本人にとってというより、子孫にとっての恐怖でもありました。
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ここまで思いを馳せたときに、葉隠の云う
「武士道とは死ぬことと見つけたり」
の真意が、大きな波となって私の胸を打ったのです。
太平洋戦争では、この言葉が曲解され「天皇のために死ね」という意味で用いられましたが、本当の意味でもし使うのだとすれば、
「国のために死んだ兵士の子孫が、子々孫々まで安心して暮らせる報償を国は与えたのか?それを与える覚悟で死を差し出させたのか!」
という国家の覚悟を問いかけるものであったということに気づいて愕然としたわけです。
少なくとも、中世的武士道では、これはそういう意味なのです。
「我々は国に奉公する、しかし、それは国よりのご恩(所領と身分の安堵)の約束が前提であり、それが報いられないのであれば、国は主君ではない!」
ということです。
私たちは、たとえば自衛隊員の子孫末代までの生活を保証する気概を持って、彼らを送り出せるでしょうか?その一票を投じることができますか?
これは、考えれば考えるほどものすごい思想です。
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よく一般的に歴史の授業で、日本人はその昔
「やあやあ我こそはどこの誰であるぞ!」
と名乗りながら戦をした、という話を聞いたものですが、なぜそれが必要だったかはもう明白ですね。
その功績をもって、子々孫々に対して恩賞を施すためであり、またそれだからこそ、武将たちはたとえ死んでも安心して死ねたわけです。こどもたちは、安堵されるわけですから。
しかし、銃の発明で、「誰の功績で誰を殺したか」が不明瞭になり、マシンガンや近代兵器の発明で「よくわからないものによって、大量の人が殺される」事態が生まれるようになりました。
これを歴史的には近代戦争のはじまりとして定義するわけですが、 この時国家が国民を、主君が家臣を守り抜くという約束が失われたことになります。
誰かが誰かを殺したという功績と、誰かが誰かに殺されたという事実がリンクしてはじめて、国家は国民と対等でいられるということは、恐ろしい話だけれども重要な視点ではないでしょうか?
これが「武士道とは死ぬことと見つけたり」の本当の意味なのです。
近い将来、もし戦争が起こったとして、私たちは戦士を犬死にさせるなんてことは絶対にあってはなりません。
それは国家の責任でもあり、国家の主権者たる国民の責任であるからです。
私たちが、この国の主権者であるならば、 戦士の子々孫々を守り抜く覚悟が求められているのです。
こんにちは^^
返信削除葉隠・・・現代語訳を持ってるけど未だ読んでない^^;
葉隠と北肥戦誌が連動していることは、野口朋隆氏が「論文:先祖の戦功をめぐる「御家」内の動向について」で触れてました。
成立年代も同時期ですし。
やはり佐賀藩独特の御家事情というのが大きく働いているのだと思います。
良い休日を^^
興味深そうな論文、ご紹介くださりありがとうございます!やはり、北肥戦誌と葉隠は連動しているんですね〜。
返信削除当時の佐賀藩の状況等も勘案すると、いろいろおもしろいことがわかってきそうな気がします!