2015年10月10日土曜日

葉隠(はがくれ)を悟る。 〜武士道と云うは、死ぬことと見つけたり〜

 みなさまおひさしぶりです。


 全国の大塚氏に関する考察はちょっとお休みをいただいておりまして、なんせ仕事やプライベートで忙しく落ち着いてから再会しようと思っております。

 といいながら、日々あっちやこっちの文献を見たり、考え事をしたりするのは続けているのでご安心ください。

 ただ、新しい発見や、それをまとめる時間がないというか・・・(^^;;


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 さて、そうした資料をいろいろ読み漁るうちに、私の中で「ストンと腑に落ちる」体験があったので、今日はそのお話を。


 そうです。大塚氏について調べることはすなわち戦国の世の武士の生き様を調べることとほとんど同義なのですが、武士道といえば鍋島佐賀藩に伝わるかの有名な


 葉隠


です。


一般には「武士道と云うは、死ぬことと見つけたり」で有名な武士の心がけをまとめた葉隠ですが、



 ようやく、これが何を意味しているのか。何がいいたいのか悟った。


のであります!(笑)


 解脱ですよ解脱!まさに、目からうろこが落ちるように、ユーレカ!と叫ぶようにビビビと来てしまったこの「葉隠を悟る」体験。


 というわけで、今回は、佐賀藩秘伝の書といわれた葉隠の真の意味を知る旅へとみなさまを誘ってまいります。



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 さて、”武士道”といえば、一般の人は、なんとなく江戸時代の武士の考え方や哲学のようなものをイメージすると思いますが、厳密にいえば「葉隠」が指し示している武士道と、いわゆる一般論の武士道とは意味合いが異なることを最初に押さえておかなくてはなりません。



 専門的な言い方をすれば、その違いは「中世の武士道」と「近世の武士道」という大枠で比較をするのですが、これは簡単にいえば


「儒教が取り入れられる前の武士道」と「儒教が取り入れられてからの武士道」の違いであり、また「実戦・戦争を想定した武士道」と「実戦を伴わない武士道」の違いでもあります。



(もちろん、葉隠の原作者山本常朝は、すでに後者の武士道が蔓延している時代の人間であるため、その境界がすこしあやふやになっているところがある部分は否めないが)



  葉隠はいうまでもなく、前者の武士道です。一般的に私たちがイメージする武士あるいは武士道は、


「ストイックで、かつ仁義に篤く、自らの行為に責任を持つ生き方」(←個人として)

&

「上位の者に対する忠義と孝行の気持ちを持ち、死をも厭わない生き方」(←組織人として)


というものであろうと思います。


 たしかに、この前半部分は、戦国期の武士道でも相通じるものがありますが、後半部分のニュアンスが少し異なることを忘れてはなりません。


 「上官の命令にしたがう」とか「殿に忠義を尽くす」とか、「切腹を命じられたら受け入れる」とか、そういう思想は、江戸時代になってから幕府が中国から輸入した新宗教である

「儒教」

の思想によって生じたものです。


 中世の武士道は、そうではなく、鎌倉幕府&源頼朝以来の


「御恩と奉公」


によって、理論化されています。

 御恩とは、鎌倉幕府や上位の者から与えられる恩賞=基本的には土地、です。つまり
武士は、土地の支配権を認めてくれる上位者に対して、奉公=忠節を尽くす、のです。


 日本中で築城の名人と言われた戦国武将・藤堂高虎は「主君を7回変えなければ武士ではない」と言ったといいますが、このニュアンスが中世の武士道に通じます。


 報奨を約束する主君に対して精一杯働くことが武士道であって、逆にいえば


「褒美をくれない主君は、その時点で捨てろ」


ということでもあるわけです。


 このあたりの感覚を理解すれば、中世の武士道が現在思われている武士道の感覚よりも
、どちらかといえば


「傭兵」とか「ゴルゴ13」とかに近いハードボイルドなもの


であることが伺い知れるというものです。


 大河ドラマ「軍師官兵衛」でもしつこく繰り返されていましたが、


「本領安堵してくれるかどうか」が常に重要


なのは、こういうことを意味しているのです。



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 ところが、戦国武士道における主君と家臣の関係が、「報償と本領安堵を基軸通貨にしたドライでストイックなもの」だったとしても、それがなぜ


”武士道とは死ぬことと見つけた”


につながるのでしょうか?


 葉隠全編を読めば、この「死ぬ」という言葉は、ある種の「精一杯生を全うする=生きる」ことと密接に関連していることがわかるのですが、

「死を覚悟して生きろ」

みたいな表面的なものだけではないことは確かです。


 作者山本常朝が、葉隠の精神としてバックグラウンドに持っていたものはどういうものなのか。

 そして、なぜ葉隠が「佐賀藩士によって書かれ、佐賀藩において禁書扱い」だったのか。

 この辺には、かなりおもしろい事実が隠れているように思えるのです。



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 さあ、結論へと筆を進めましょう。結論からいえば、現代人は「葉隠」だけを読んでもその根底に流れる基本哲学は理解できません。


 ましてや、武士道において「死ぬ」の本意について直感的にわかることはないと思われます。


 では、どこにそのヒントがあるのか。


 今回、大塚某は研究のために佐賀藩にまつわるいろいろな資料を読みましたが、


「北肥戦誌」「歴代鎮西志」「歴代鎮西要略」の3資料を読んでから葉隠を読まないといけないことがやっとわかったのです。


  少なくとも、「北肥戦誌」を読んでみて、それから「葉隠」を読むと、武士道の本質がまるで釈迦が解脱するかのようにビビビと体感できるのです。



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 一体どういうことか。


 このブログでも「北肥戦誌」講読の回を設けてきましたが、あの書物は単なる「歴史を書いた書物」ではありません。一般的に「軍記物」と言われるジャンルの資料ですが、ただの「戦の記録」でもないのです。

 
  一度でも「北肥戦誌」を読んだことがある人は、すぐ気づくと思いますが、

 「こいつは一体誰やねん!」

という名もなき武将や雑兵の名前がとにかく何百人単位で出てきます。中堅の武将だけでなく、時には足軽に近い人物の名前も物語にきちんと登場します。


 どうして歴史や戦いの記録に、逐一関係者全員の名前を挙げて書き付けねばならなかったか、これが大きなポイントです。


  そうです。「北肥戦誌」の最終目的は、歴史物語ではないのです。


”どこの誰それという家臣が、どういう戦いぶりをして死んでいったか”


を明確に記録するのが目的であると考えられるのです!!


 なぜ、それが重要なのか。答えはひとつです。

 その子孫が、佐賀藩において「先祖が功績を挙げたことを確認し、それについての恩賞を与え適切な処遇をしてもらえるように」ということです。


  変な言い方をすれば、軍記物語とは、「子孫のための先祖の成績表」と言ってもよいかもしれません。

 まさに、「御恩と奉公」という中世的主君家臣関係を如実に受け継ぐものであるわけです。


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 しかし、まだ「成績表と死」の関係性が見えてきませんね。そこで、私の先祖と思われる大塚隠岐の動きを追って考えましょう。


1)大塚隠岐は、神代長良の家臣として土生島城の戦いで、長良を逃す働きをした。

 この働きについては記録され、逆にここで死んだという記録はされていない。



2)大塚隠岐は、その後長良が龍造寺隆信家臣になったのに伴い、龍造寺軍下に合流した。



3)大塚隠岐は、 三潴地域のある村に所領をもらい、そこに駐屯したがその間に隆信が死に、龍造寺軍は佐賀へ撤退した。



4)取り残された大塚隠岐は、所領に居座る間に秀吉軍の侵攻を受け、武装解除され帰農した。



 そして、その土地に子孫が居続け、私につながるわけですが、隠岐が死なずに生きつづけたことはすなわち「武士から帰農し、おまけに隣の国で漫然と暮らし続けた」ということと如実に関係しているわけです。


  それは、まさしく大塚隠岐という武将が「武士道を失った」ことに相違ありません。



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 軍記物語において、「死が記録される」ということは武士としての功績が永遠に記録され、主君に認められることに他なりませんでした。

 そして、その功績によって、子孫は死んだ本人になり変わって御恩を享受することができたわけです。


 武士の死とは、そういう側面がありました。


 逆に生き続ければ、主君との関係は現在進行形で続くか、あるいは帰農して失われるかのどちらかになってしまうわけです。


 そこには、「漫然と生きたことで、功績もなくただだらだらと生き延びたのみ」であるという職業的不完全・未達成が残ることになります。


 それを現代風に言い直せば、「死を覚悟して生き抜いたかどうか」というニュアンスになるわけですが、中世的価値観では、もしだらだら生きたのみで功績を挙げなければ、


「所領は誰かほかの家臣に与えられてしまうかもしれない」


という恐怖を孕むものであったでしょう。それは、もちろん、本人にとってというより、子孫にとっての恐怖でもありました。


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 ここまで思いを馳せたときに、葉隠の云う


「武士道とは死ぬことと見つけたり」


の真意が、大きな波となって私の胸を打ったのです。



 太平洋戦争では、この言葉が曲解され「天皇のために死ね」という意味で用いられましたが、本当の意味でもし使うのだとすれば、


「国のために死んだ兵士の子孫が、子々孫々まで安心して暮らせる報償を国は与えたのか?それを与える覚悟で死を差し出させたのか!」


という国家の覚悟を問いかけるものであったということに気づいて愕然としたわけです。


 少なくとも、中世的武士道では、これはそういう意味なのです。


「我々は国に奉公する、しかし、それは国よりのご恩(所領と身分の安堵)の約束が前提であり、それが報いられないのであれば、国は主君ではない!」

 ということです。


  私たちは、たとえば自衛隊員の子孫末代までの生活を保証する気概を持って、彼らを送り出せるでしょうか?その一票を投じることができますか?


 これは、考えれば考えるほどものすごい思想です。



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 よく一般的に歴史の授業で、日本人はその昔


「やあやあ我こそはどこの誰であるぞ!」

と名乗りながら戦をした、という話を聞いたものですが、なぜそれが必要だったかはもう明白ですね。

 その功績をもって、子々孫々に対して恩賞を施すためであり、またそれだからこそ、武将たちはたとえ死んでも安心して死ねたわけです。こどもたちは、安堵されるわけですから。


 しかし、銃の発明で、「誰の功績で誰を殺したか」が不明瞭になり、マシンガンや近代兵器の発明で「よくわからないものによって、大量の人が殺される」事態が生まれるようになりました。


 これを歴史的には近代戦争のはじまりとして定義するわけですが、 この時国家が国民を、主君が家臣を守り抜くという約束が失われたことになります。


  誰かが誰かを殺したという功績と、誰かが誰かに殺されたという事実がリンクしてはじめて、国家は国民と対等でいられるということは、恐ろしい話だけれども重要な視点ではないでしょうか?



 これが「武士道とは死ぬことと見つけたり」の本当の意味なのです。



 近い将来、もし戦争が起こったとして、私たちは戦士を犬死にさせるなんてことは絶対にあってはなりません。


 それは国家の責任でもあり、国家の主権者たる国民の責任であるからです。


 私たちが、この国の主権者であるならば、 戦士の子々孫々を守り抜く覚悟が求められているのです。

2015年9月14日月曜日

<日常>2015 鬼怒川大洪水・水害 〜姓氏家系研究で、災害は予防できるか?〜

 先日の関東・東北地方での大水害については、広範囲で甚大な被害が起き、心を痛めています。

 被害に遭われた方には、心よりお見舞い申し上げます。


 さて、特に鬼怒川などでの河川氾濫・堤防決壊などの映像をみて、東日本大震災での津波の映像を思い起こした方も多いと思いますが、水害被害が甚大であれば「まるで津波のように町が水に沈む」というわけではなく、厳密に言えばその表現は間違いであると言えます。


 そうではなくて、「関東の平野における水害とは、本来もともと海だった地域を開墾して農地や宅地にしているだけで、町が水に沈んだのではなく、もともと水に沈んでいた場所が町になったのだ」という言い方のほうが正しいことになります。


  というわけで、水害想定地域=津波想定地域という図式が成り立ち、一旦水の被害が出ればそれはすなわち津波のような状況になる、というのは当たり前のことなのかもしれません。


 このあたりの解説は、JBPressさんの記事でとてもわかりやすいものがあったので紹介しておきます。



鬼怒川で起きた大洪水を歴史と科学で検証する 

〜水を治めてきた先達の知恵を疎かにしていないか〜

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/44777






 さて、まちづくりや土木の世界では、「ここの地盤は強いとか弱い」といった判断や、「ここは埋立地である」という開発の視点や、「この町の降水量がどうのこうの」といった現代における科学的な見方で災害を防ごうとしています。


 ところが、こうした考え方だけでは、自然災害には太刀打ちできない、ということがだんだんと明らかになってきました。


 昨今取り沙汰されている「富士山が噴火するのかどうか」といった問題や課題も、今現時点で地質的にどうこう言うのではなく、これまで歴史上何回噴火したのかとか、そのスパンがどうだったのかという、


 かなり長期に渡っての歴史学的見地からの判断


が求められるようになってきているわけです。



 少なくとも、「この火山の噴火ペースがどのくらいか」とか「この地点は津波が来たことがあるのかないのか」とか「ここはもともと海なのか川なのか」といった考え方は、


近代・現代


の視点ではまったく太刀打ちできません。


 そうです。自然災害を予見しようと思えば、明治大正昭和の記録ではとうてい判断できず、江戸時代以前の近世・中世・中古・古代といった


超ロングスパンでの見地


が欠かせなくなっているわけです。


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 さて、私はふだん姓氏や家系・名字について調べていますが、苗字調べの中でそうした自然災害の痕跡やデータに遭遇することが多々あります。


 具体的な事例は個人情報のこともあるので差し控えますが、「苗字調べ・ルーツ調べ」を依頼してくださった実例の中に、実は大災害や大津波、地震などが大きく関わっていたという事実が存在していました。


  なぜ、そうしたことが生じるのか。


 理由は簡単です。


 苗字調べをしていると、ある氏族が大きく本拠地・本貫地を変更している・移動している事例に出くわします。


 この理由に当たる事実はいくつかパターンがあるのですが、中世以前の古い時代であれば


「A氏族がどこそこの守護・地頭などに任命された」

とか、近世以前であれば


「どこそこ藩主の領地替えに連動して移動した」


とか、そうした任官・職業・身分に関わる本拠地の移動がデータとして浮かび上がってくるわけです。



 ところが、そうした移動の中に、任官を伴わないものが存在することが出てくるのです。

「Aという氏族が、なぜかある時期に本拠地を移動している」


とか


「Aという氏族が、ある時期に2つや3つの集団に分派している」


とか


「関連氏族がごっそり違う土地へ移動している」


といった事例です。



  ここに、災害が存在するわけです。


 阪神大震災以来、仮設住宅を作るという方法が一般的になり、東日本大震災においては低地から高地への集団移転という手法もとられるようになりましたが、まったく同じで、


中古中世江戸時代に至るまで、おなじように「氏族が災害のために移転した」


痕跡がちゃんと残っているということがわかるのです。


 これらの事例の解析がなぜ重要かというと、こうして移動・移転した氏族は、


「災害を生き残って、生き延びた側のデータ」


を有しているからです。


 滅んでしまった氏族は、移動や移転の記録を持ちませんが、生き延びて生き残ったからこそ、氏族の歴史のなかに違う土地へ移った痕跡が残るわけです。


 そして、その分布を現代のそれを比較すると、今現時点で災害は起こっていないけれど、


「このA地点が問題ありで、その結果安全なB地点へ移った」


といったことも解析できることがわかってきました。


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 これをうまく活用すれば、災害に対する姿勢がおおきく変わると思います。

 これまでは

「なんとかという市でその昔川が氾濫して、洪水が起こったよ」という語り口調だったので、日本昔話レベルでしか誰も話を聞かなかったのが、


「どこそこで川が氾濫して、山田一族や鈴木一族は高台に移転して助かったので、山田さんあなたはその時の生き残った先祖の子孫です。なので、あなたは今ここに存在しますよ」

とか

「別の氏族はそのまま洪水で滅亡したので、この町には鎌倉時代まではなんとかさんが存在していたけど、みんな消えてしまいました」


とか、そういう認識になると、防災に対する心がまったく新しいものになると考えるのです。


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 現在の私の研究では、さすがに災害や事変のすべてを網羅するほどではありませんが、いち氏族の動向からそうした異変を察知することは可能になっています。


 これらの異変には、「一揆が起きた」とか「動乱があった」とか、自然災害以外のものも含まれます。

 一揆が起きれば、それまでの農民指導者層から別の指導者層へと権力が移りますし、動乱があれば氏族が離散する方向へ移動します。


 こうした事例を積み重ねてゆけば、「問題ないと思われている地点」の災害予知などにも活用できるかもしれません。


 





2015年8月6日木曜日

<115>新発見!ついに見つけた「大友氏流大塚氏」 大友から出た大塚氏が見つかった!

 前回の記事で、豊前や豊後に着目しながら、いわゆる


 どう考えても少弐系じゃないよね、な大塚氏


についてスポットを当ててきたのだが、いよいよ大発見である!



 なんと、なんと、あの中世九州の大モノ中の大物、大友氏から出た大塚氏を発見したのである!!


 いやー、これはまさしくヒバゴンとかビッグフットとか、ツチノコ級の発見といってよいだろう。



 なんといってもあの大友氏の末流なのだ。たしかにこれまで家臣団の中に大塚氏がいたことはわかっていたが、まさか


大友氏の直接の子孫に大塚がいる


とは思わなかった!



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 その資料はこちらにある。



 直入郡志
 https://books.google.co.jp/books/about/%E7%9B%B4%E5%85%A5%E9%83%A1%E5%BF%97.html?id=rxMzC-q8p6oC



 直入郡とは現在の大分県竹田市にあたり、この地域にも大塚さんがたくさんおられる。


 さっそく記事をみてゆこう。


 P146

 【満徳寺】 豊岡村鏡にあり、真宗大谷派本願寺の末寺にして阿弥陀如来を本尊とす。

 大友能直十一代の孫右宗亮親著の庶子に大塚親左衛門親右といふ者あり。

 応仁丁亥元年、本願寺第八世蓮如上人に帰依し、剃髪して了善と改名せしが、文明庚寅二年、師上人より一寺建立を許容せられ、寺号満徳寺を賜ひ同丙甲八年荻村字馬場に一寺を創建す。

(以下略)



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 パターンは、なんとなく少弐系大塚氏と似ている。


 大友親著 ウィキペディアより
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E8%A6%AA%E8%91%97



 大友親著は室町時代中期の大友家当主であるから、一応直系。”親”の字を貰っているあたりが、いかにも庶子っぽい。


 本庄予賀神社(+神宮寺)の宮司別当になった大塚氏のように、大友家から出て宗教ネットワークを押さえるために出家した人材だと推定できるが、実際その後の満徳寺は隆盛したようである。



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 この話と別に大塚氏に関する話が、もう一つ直入郡志には載っていて、そちらはこんな話である。


 P134

 【村社大塚八幡社】 菅生村大字戸上にあり、応神天皇・玉依姫命・菅原神を祭る。加藤家熊本退城の際、その家臣大塚某戸上村へ来たり、駄原ヶ城を築き居る。その守護神として八幡の神を祭れるものなり、と伝ふ。



 たしかに、加藤清正の家臣団にも大塚の名はあるのだが、気になるのは駄原ヶ城のほうだ。

 
 竹田の駄原城といえば岡城の支城であり、志賀氏とその城代朝倉氏が守っていた。

 天正14年には島津VS大友の「岡城の戦い」「駄原城の戦い」が起こっており、「駄原城」の成立由来は少なくとも戦国期に遡る。(岡城そのものは鎌倉期に成立)


 加藤家が熊本を去るのは三代、寛永9年のことなので時代が錯誤すぎる。なので、この話そのものはかなり誤解があるように感じられるのだがいかがだろう。



 なるべく史実に近い解釈をするならば、大塚某は、本来大友氏とその子孫である志賀氏に関連野ある「大友系大塚氏」なのではなかろうか。


 
 ウィキペディアより 岡城
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E5%9F%8E_(%E8%B1%8A%E5%BE%8C%E5%9B%BD)



 あるいは、岡城にまつわるエピソードでは、文禄の役で小西行長を見捨てて大友氏が所領没収の罰を受けた際、志賀氏が岡城を追い出されているので、それと混同が起こっている可能性もある。

 

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 いずれにせよ、大友氏系列の大塚氏の存在が明らかになった今、豊前豊後の大塚氏は、一気に大友系で推定できるようになったというものだ。わっはっは。


 というわけで


 家紋、抱き杏葉の大塚さん、連絡ください!!




<114>福岡藩黒田家臣の大塚氏についての仮説 ~豊前国宇佐・中津を中心に~ 官兵衛ちゃんと大塚氏

 さまざまな人のデータ提供、情報提供もあって、おぼろげながら福岡藩大塚氏の構成・成り立ちがわかってきた今日このごろ。


 話がバラバラにならないように、ちょいとまとめておきたい。



 福岡藩というのは、言わずとしれた「黒田官兵衛ちゃん」と息子の「長政」によって率いられた黒田家とその家臣団である。


 で、黒田氏そのものは、播磨からやってきている。このブログでは通説の近江出身黒田氏説ではなく、播磨出身黒田氏説を採っているが、その家臣団には播磨の人が多いことが判明している。


 黒田家の分限帳によれば、数氏の大塚氏が見つかるが、その中には「源氏の大塚」「平氏の大塚」「それ以外」と大きく3パターン以上の大塚氏が見つかっている。


 さて、それらの中で、


①播磨からやってきた大塚氏


も当然見つかっているし、可能性として


②最初に入封した豊前中津から従った大塚氏

や

③筑前福岡に入ってからの大塚氏


がいてもおかしくない、と考えている。



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 さて、播磨姫路系大塚氏については今回は触れないが、豊前国にいた大塚氏とはどのような存在だったのか。これまでにもいろいろと調査をしているのだが、これまでははっきりした実像が浮かんでこなかった。


 ところが、今回、氏族からではなく、地名関係から推測できそうな新発見があったので、今日はそのあたりのお話をしようと思う。






☆参考までにこれまでに挙げた豊前系大塚氏についての考察はこのへんに↓


 宇佐八幡と大塚氏
 http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/07/blog-post_2.html


 大友家臣、朽綱系大塚氏
 http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/08/blog-post.html

 
 宇都宮(伊予・大木)系大塚氏  秋月氏流大塚氏
 http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/12/blog-post.html

 http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2015/04/blog-post_23.html




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 さて、まずは宇佐八幡に関係しそうな大塚氏について、新しい資料が発見されたので挙げておきたい。



東京大学史料編纂所 宇佐永弘文書調査 のページより
https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/22/saiho_usa%20nagahiro%20monjo.htm



 めちゃくちゃ長いので検索をかけてもらうとよいのだが、宇佐神宮の荘園である、豊後国田染庄に


大塚二郎五郎


という人物がいた記録である。この田染荘は現在の豊後高田市に当る。


 豊後高田というのは、宇佐の隣なので、もしかすると宇佐八幡関係で登場した大塚氏と関係があるかもしれないということで、さらっと記憶しておこう。


 ちなみに、豊後高田には其の名もズバリ「大塚古墳」という史跡もあるので、宇佐地域の大塚氏はむしろ豊後高田発祥という可能性もないわけではない。



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 さて、上の話はさらっと流しておくが、氏族ではなく地名から攻略すると面白いことがわかってくる。


 実は宇佐市に大塚という地名があるのだ!


 また、これまたついでだが、


 中津市にも大塚という地名があるのだ!


(旧国名ではそれぞれ、豊前国宇佐郡大塚村、豊前国下毛郡大塚村になる)


 まあ、中津のほうはもともと中津城が大塚山という場所にあるので、そちらとも関連するのだが。



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 そうすると、これらの地名に由来する従来からの氏族「大塚氏」が存在した、と仮定しても全然おかしくないと思うのだがいかがだろうか?



 宇佐地域にいた大塚氏は、そもそも地場の大塚氏であり出自不明。


 中津にいた大塚氏も地場の大塚氏で出自不明。(ただし、こちらは黒田氏に従ったか)



という目線で見ることも、あながちハズレではないような気がする。




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 補足的な言い方をすれば、北肥戦誌において少弐氏の末流たちは「それぞれ肥筑地方にはびこり」とあるわけで、文字通り、肥前肥後・筑前筑後にいる大塚氏は少弐系の可能性がある、と読めば



 当然、豊前豊後は除外されてしかるべき



というわけである(笑)




 しかし、今回の話は物証・実証拠がないのであくまでも仮説ね。仮説。


2015年8月5日水曜日

【情報日本文学会 会報 1】 コンピュータに面白い小説は書けるのか? 

 夏真っ盛り、みなさんいかがお過ごしでしょうか?


 漢字で書けば大塚某こと、大塚とあるです。


 勝手に名乗り、勝手に始めた「情報日本文学会」なる”学会?!”なるものの第一弾です。

 本人はいたってまじめに取り組んでいますが、そのうちころ良い加減に力が抜けると思うのでよろしく。

 まあ、”と学会”のようにゆるーくやりたいと思っております。



 ☆ と学会 ・・・トンデモ本を批判的に楽しむ某団体。
 http://www.togakkai.com/



 いいよねー。あのまじめさとユルさの中間ぐらいのノリが好き。



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 というわけで、今回は、現代ビジネスさんに面白い記事があったのでそのあたりを。


 コンピュータに「面白い小説」は書けるか
 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/44477



 今村友紀さん、海猫沢めろんさんという二人の作家の対談なのですが、今村さんという方は、カンタンに言えば、


「売れる小説の設定や要素をパターン化して再構築すれば、半ば自動化された”ヒット小説”が作れるのではないか?」


という考え方で実験をなさっているそうです。


 いやあ!面白い。まさに「情報日本文学」にふさわしい発想ですね。


( 実は私も、ちょっと傾向と対策は違うのですが、似たようなことをずっと考えていて、近々それに基づいたネタをひとつ公開する予定なので、こういう話はわくわくします。)


 実は上の記事と似たような話はすでに存在していて、アメリカのハリウッド映画の脚本なんかでは、

「スタートして何分でこういうことが起きて、それから何分で主人公にアレが起きて、その後第三者が出てきて・・・」


という魔法のセオリーみたいなものが決まっていて、だいたいそれに沿っていれば面白くて売れる映画になるという話を聞いたことがあります。ほんまかいな。


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 しかし、そうしてパターン化された創作物は、作家の個性というか心のようなものが入っていないのだとすればどうなの?!という疑義があります。

 それを、記事では「作家の魂」と表現していますが、読者はやっぱり魂を求めるのではないか、ということです。


 この問いへの答えは、みなさんにもいろいろ意見があろうかと思いますが、大塚某的には、


「案外、人間ってのは魂がなくてもパターンで感動し、面白いと感じちゃうんじゃないの?」


と思ってます(爆笑)


 というのも、大塚某は、このブログではほとんど正体を明かしていませんが、別の活動で

 「映像作家の真似事」のようなことをしたり、「台本のようなもの」を書く仕事に関わったり、「音楽製作に関するアーチストの真似事」のようなことをしたりしている

 ので気づくのですが、映像にしても筋書きにしても

 「物語の中の誰かが死んだら、客は泣く」

し、音楽ひとつにとっても

「カノン進行で曲を作ったら、それらしく聴こえる」

というセオリーが存在するので、人が感動したり心が震えるポイントなんて、実は狭いのじゃないか、と思っているわけです。


 面白い話があって、私が審査員として携わっていた、とある「青少年の主張」みたいな意見発表の場があったのですが、 若者が次々に登壇しては「感動的な話」をするわけです。

 自分の家族がどうとか、親がどうとか、あるいは自分の境遇はこうだけど頑張る、みたいな「お涙頂戴」の話が次々に繰り出されるわけですが、出場していたオトコの子がぽつりと控え室で言ってました。


「・・・いったい、今日何人死んだんやろな」


と。


 彼はお父さんが亡くなって辛い思いをしており、その話を壇上でしたのですが、そんな当人が、「この大会では一体何人死ぬんだ」と苦笑するほど、まあ出場者の家族が次々に死んだ話をするというのは、ある種パターン化された


「いい話」「感動する話」


が存在するという証でもあるでしょう。


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【情報日本文学会 今日の研究1】

 
  えーっと、後半戦は学術的なお話。


 この世に出ているすべての書籍をアーカイブしてデジタル保存しよう、というとんでもない取り組みをしている集団がおりまして。

 実現したらすごいことになるだろうなあ、と思っているのですが、そんな世界征服みたいな真似事をしているのはもちろん


 グーグルさん


に他なりません。


 当ブログでも取り上げているいろんな学術書や貴重書のたぐいがありますが、グーグルさんはすでにデジタル化を済ませており、今日はその実例をご紹介してみましょう。



 歴代鎮西要略
 https://books.google.co.jp/books?id=QJZHAAAAMAAJ&hl=ja&source=gbs_book_similarbooks



 上のリンクには、グーグルブックスにおける「歴代鎮西要略」が収納されていますが、これだけではデジタルテキストとして読むことはできません。

 しかし、検索窓がついているので、そこに文字を打ち込めば、その文字が含まれているかどうかの検索はできるようになっています。

 たとえば「大塚」と打ち込むと、全6件中3件の回答が上がってきます。


 ところがよ!!!


  でもでも、この全文検索は不十分で、どうやら全文スキャンはされているものの、OCRの精度が低く文字化けがたくさん存在するので、「大塚」が完全に抽出されるわけではないのです。

 なので、現時点ではあまり役に立たないのですが、情報日本文学会的には、こうした資料の全文テキスト化計画はぜひどんどんやってほしいものです。


 まあ、権利関係もあるので、すべてを無料公開するわけにはいかないとは思いますが・・・。



例)「歴代鎮西要略」のグーグルブックス版は、2007年にミシガン大学にあった本を全文スキャン&デジタルOCR読み込みをしていると考えられる。

しかし、版元の文献出版(現存する企業さん)が、無料公開を許可していないので、デジタルファイルを閲覧することができない。

また、OCRについても読み込んだのみで原本との照らしあわせができておらず、かなり不完全。



 当ブログではこれまでにも、デジタル公開されている資料や検索できるエンジンを発掘してはじゃんじゃん利用していますが、こういうものを探す技術、使いこなす技術がまず大事かな~なんて思いますです。はい。






 

 

2015年7月25日土曜日

<姓氏家系>完全網羅 苗字 横岳姓・横岳氏・横岳さんのすべて! 全横岳氏族 由来・ルーツ 超まとめスペシャル

 今回の記事は、九州少弐系の氏族を中心としながら、横の広がりを調査するためにまとめたものです。

 全国の横岳氏・横岳さんにまつわる先祖のルーツを完全網羅しています。

 抜けているもの、未調査のものは、随時加筆しています。(最終更新 2015.7.25)


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★ 参考文献 ★

 今回のリスト制作に当たっては、以下の参考文献を元に作成した。


 

 ① 「姓氏家系辞書・姓氏家系大辞典」 太田亮 近代デジタルライブラリー版

 ② 「日本の苗字7000傑」  http://www.myj7000.jp-biz.net/
 
 ③ その他

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 今回のリストは、上記参考文献を元に、全国各地に散らばる「横岳姓」「横岳氏」について、なるべく重複を避ける形でわかっていることを列記したものである。



【  】内についてはわかるかぎりの家紋を示した。


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A  横岳氏  少弐系 少弐貞頼の二男頼房が肥前国三根郡西島に居城して横岳を称す。【寄掛目結】

A'   横岳氏  少弐系 肥前国神崎郡横武邑より起こる。少弐系図では「頼房(横岳孫次郎・横岳組)とある。


A' 横武氏  佐賀県神埼市神埼町横武発祥。(少弐横岳氏と同系か?)



 この他は現在調査中。

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<姓氏家系>完全網羅 苗字 安永姓・安永氏・安永さんのすべて! 全安永氏族 由来・ルーツ 超まとめスペシャル

 今回の記事は、九州少弐系の氏族を中心としながら、横の広がりを調査するためにまとめたものです。

 全国の安永氏・安永さんにまつわる先祖のルーツを完全網羅しています。

 抜けているもの、未調査のものは、随時加筆しています。(最終更新 2016.3.28)


 ☆個別の御家のルーツについてより詳しく知りたい方は、記事下部の
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★ 参考文献 ★

 今回のリスト制作に当たっては、以下の参考文献を元に作成した。

 

 ① 「家紋でたどるあなたの家系」 千鹿野茂  八木書店

 ② 「続・家紋でたどるあなたの家系」 千鹿野茂  八木書店

 ③ 「姓氏家系辞書・姓氏家系大辞典」 太田亮 近代デジタルライブラリー版

 ④ 「日本の苗字7000傑」  http://www.myj7000.jp-biz.net/
 
 ⑤ その他

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 今回のリストは、上記参考文献を元に、全国各地に散らばる「安永姓」「安永氏」について、なるべく重複を避ける形でわかっていることを列記したものである。



【  】内についてはわかるかぎりの家紋を示した。


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A 安永氏  大蔵氏流(帰化漢族の末裔) 岩門氏を経て安永氏 安永種永が祖 【地紙か?】

B 安永氏  豊前田川の豪族 応永正長の頃に安永大膳允がいた。 家紋不明

B' 安永氏  少弐系 武藤資頼の次男頼茂から四代後の定行が安永と称し鞍手(郡)に住む。領地田川郡大任町安永より名を取る。 家紋不明

B' 安永氏  少弐系  資頼の次男頼茂の四代目である定行が筑後国三原郡の安永荘を賜り姓を安永と定めその子、安永但馬守藤原重勝が若宮町日少神社(北斗宮)を建立した、とある。

C 安永氏  肥前三根郡安永より出た氏族がいたか? 家紋不明

D 安永氏  熊本県上益城郡益城町安永より出た氏族がいたか? 家紋不明

E 安永氏  御井郡安永村(久留米市北野町中川・安永)より出た氏族がいたか? 家紋不明


そのほか、安永姓の家紋では

【桐紋】


を用いるものがある。


 この他は現在調査中。

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