さまざまな人のデータ提供、情報提供もあって、おぼろげながら福岡藩大塚氏の構成・成り立ちがわかってきた今日このごろ。
話がバラバラにならないように、ちょいとまとめておきたい。
福岡藩というのは、言わずとしれた「黒田官兵衛ちゃん」と息子の「長政」によって率いられた黒田家とその家臣団である。
で、黒田氏そのものは、播磨からやってきている。このブログでは通説の近江出身黒田氏説ではなく、播磨出身黒田氏説を採っているが、その家臣団には播磨の人が多いことが判明している。
黒田家の分限帳によれば、数氏の大塚氏が見つかるが、その中には「源氏の大塚」「平氏の大塚」「それ以外」と大きく3パターン以上の大塚氏が見つかっている。
さて、それらの中で、
①播磨からやってきた大塚氏
も当然見つかっているし、可能性として
②最初に入封した豊前中津から従った大塚氏
や
③筑前福岡に入ってからの大塚氏
がいてもおかしくない、と考えている。
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さて、播磨姫路系大塚氏については今回は触れないが、豊前国にいた大塚氏とはどのような存在だったのか。これまでにもいろいろと調査をしているのだが、これまでははっきりした実像が浮かんでこなかった。
ところが、今回、氏族からではなく、地名関係から推測できそうな新発見があったので、今日はそのあたりのお話をしようと思う。
☆参考までにこれまでに挙げた豊前系大塚氏についての考察はこのへんに↓
宇佐八幡と大塚氏
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/07/blog-post_2.html
大友家臣、朽綱系大塚氏
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/08/blog-post.html
宇都宮(伊予・大木)系大塚氏 秋月氏流大塚氏
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/12/blog-post.html
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2015/04/blog-post_23.html
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さて、まずは宇佐八幡に関係しそうな大塚氏について、新しい資料が発見されたので挙げておきたい。
東京大学史料編纂所 宇佐永弘文書調査 のページより
https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/22/saiho_usa%20nagahiro%20monjo.htm
めちゃくちゃ長いので検索をかけてもらうとよいのだが、宇佐神宮の荘園である、豊後国田染庄に
大塚二郎五郎
という人物がいた記録である。この田染荘は現在の豊後高田市に当る。
豊後高田というのは、宇佐の隣なので、もしかすると宇佐八幡関係で登場した大塚氏と関係があるかもしれないということで、さらっと記憶しておこう。
ちなみに、豊後高田には其の名もズバリ「大塚古墳」という史跡もあるので、宇佐地域の大塚氏はむしろ豊後高田発祥という可能性もないわけではない。
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さて、上の話はさらっと流しておくが、氏族ではなく地名から攻略すると面白いことがわかってくる。
実は宇佐市に大塚という地名があるのだ!
また、これまたついでだが、
中津市にも大塚という地名があるのだ!
(旧国名ではそれぞれ、豊前国宇佐郡大塚村、豊前国下毛郡大塚村になる)
まあ、中津のほうはもともと中津城が大塚山という場所にあるので、そちらとも関連するのだが。
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そうすると、これらの地名に由来する従来からの氏族「大塚氏」が存在した、と仮定しても全然おかしくないと思うのだがいかがだろうか?
宇佐地域にいた大塚氏は、そもそも地場の大塚氏であり出自不明。
中津にいた大塚氏も地場の大塚氏で出自不明。(ただし、こちらは黒田氏に従ったか)
という目線で見ることも、あながちハズレではないような気がする。
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補足的な言い方をすれば、北肥戦誌において少弐氏の末流たちは「それぞれ肥筑地方にはびこり」とあるわけで、文字通り、肥前肥後・筑前筑後にいる大塚氏は少弐系の可能性がある、と読めば
当然、豊前豊後は除外されてしかるべき
というわけである(笑)
しかし、今回の話は物証・実証拠がないのであくまでも仮説ね。仮説。
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