前回の記事で、豊前や豊後に着目しながら、いわゆる
どう考えても少弐系じゃないよね、な大塚氏
についてスポットを当ててきたのだが、いよいよ大発見である!
なんと、なんと、あの中世九州の大モノ中の大物、大友氏から出た大塚氏を発見したのである!!
いやー、これはまさしくヒバゴンとかビッグフットとか、ツチノコ級の発見といってよいだろう。
なんといってもあの大友氏の末流なのだ。たしかにこれまで家臣団の中に大塚氏がいたことはわかっていたが、まさか
大友氏の直接の子孫に大塚がいる
とは思わなかった!
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その資料はこちらにある。
直入郡志
https://books.google.co.jp/books/about/%E7%9B%B4%E5%85%A5%E9%83%A1%E5%BF%97.html?id=rxMzC-q8p6oC
直入郡とは現在の大分県竹田市にあたり、この地域にも大塚さんがたくさんおられる。
さっそく記事をみてゆこう。
P146
【満徳寺】 豊岡村鏡にあり、真宗大谷派本願寺の末寺にして阿弥陀如来を本尊とす。
大友能直十一代の孫右宗亮親著の庶子に大塚親左衛門親右といふ者あり。
応仁丁亥元年、本願寺第八世蓮如上人に帰依し、剃髪して了善と改名せしが、文明庚寅二年、師上人より一寺建立を許容せられ、寺号満徳寺を賜ひ同丙甲八年荻村字馬場に一寺を創建す。
(以下略)
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パターンは、なんとなく少弐系大塚氏と似ている。
大友親著 ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E8%A6%AA%E8%91%97
大友親著は室町時代中期の大友家当主であるから、一応直系。”親”の字を貰っているあたりが、いかにも庶子っぽい。
本庄予賀神社(+神宮寺)の宮司別当になった大塚氏のように、大友家から出て宗教ネットワークを押さえるために出家した人材だと推定できるが、実際その後の満徳寺は隆盛したようである。
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この話と別に大塚氏に関する話が、もう一つ直入郡志には載っていて、そちらはこんな話である。
P134
【村社大塚八幡社】 菅生村大字戸上にあり、応神天皇・玉依姫命・菅原神を祭る。加藤家熊本退城の際、その家臣大塚某戸上村へ来たり、駄原ヶ城を築き居る。その守護神として八幡の神を祭れるものなり、と伝ふ。
たしかに、加藤清正の家臣団にも大塚の名はあるのだが、気になるのは駄原ヶ城のほうだ。
竹田の駄原城といえば岡城の支城であり、志賀氏とその城代朝倉氏が守っていた。
天正14年には島津VS大友の「岡城の戦い」「駄原城の戦い」が起こっており、「駄原城」の成立由来は少なくとも戦国期に遡る。(岡城そのものは鎌倉期に成立)
加藤家が熊本を去るのは三代、寛永9年のことなので時代が錯誤すぎる。なので、この話そのものはかなり誤解があるように感じられるのだがいかがだろう。
なるべく史実に近い解釈をするならば、大塚某は、本来大友氏とその子孫である志賀氏に関連野ある「大友系大塚氏」なのではなかろうか。
ウィキペディアより 岡城
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E5%9F%8E_(%E8%B1%8A%E5%BE%8C%E5%9B%BD)
あるいは、岡城にまつわるエピソードでは、文禄の役で小西行長を見捨てて大友氏が所領没収の罰を受けた際、志賀氏が岡城を追い出されているので、それと混同が起こっている可能性もある。
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いずれにせよ、大友氏系列の大塚氏の存在が明らかになった今、豊前豊後の大塚氏は、一気に大友系で推定できるようになったというものだ。わっはっは。
というわけで
家紋、抱き杏葉の大塚さん、連絡ください!!
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