これまでの研究で、久留米の梅林寺は、もともとは有馬家菩提寺の大龍寺として創建され、有馬則頼の墓を摂津淡河天正寺から移すに当たって、「梅林寺」と改称したらしきことが判明した。
しかし、あとひとつ、摂津三田にある「梅林寺」の由来が、まだ解決していない。現在は「心月院」として、有馬氏の後に三田に入った九鬼氏の菩提寺になっているこの寺のルーツが、知りたいわけである。
ちなみに、この「心月院」も、九鬼氏の手によって、江戸におなじ「心月院」が作られていることも、合わせて紹介しておこう。
遊歩酔々さんのサイトより
http://www.yuhosuisui.jp/%E6%9D%89%E4%B8%A6%E5%8C%BA-%E5%AF%BA%E9%99%A2/%E5%BF%83%E6%9C%88%E9%99%A2/
こちらの心月院は、杉並区にあり、寛永12年(1635)に浅草に立地、のち大正時代に現地に移ったという。
興味深いのは、九鬼氏が、三田の「梅林寺」を「心月院」に改称したのが、寛永11年(1634)のことだという記録である。
とすると、有馬氏が、三田を出て行ったのが1620年、九鬼氏が三田に入ったのが、1632年なので、話はぴったり合う。
(途中に、1626~1632年は、松平氏が三田に入っている)
つまり、1620年~1634年の間、三田に「梅林寺」という寺が存在していた、というわけだ。
==========
では、三田梅林寺とは、どんな寺だったのか?!
その回答になりそうな記述が、
花雲雀の旅とハイキング さんのブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/k4216503/67251397.html
寺社めぐりと映画と酒と、ときどき旅 さんのブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/imoimochan1911co/33542845.html
大阪西ロータリークラブ さんのサイト
http://www.osaka-westrc.org/takuwa/%E3%80%8C%E7%A7%81%E3%81%AE%E7%94%BA%E4%B8%89%E7%94%B0%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%A8%E6%96%87%E5%8C%96%E3%80%80%E3%81%A1%E3%82%87%E3%81%A3%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%9F%E8%A9%B1/
にあった。
これらを総合すると、
① 三田梅林寺は、天正13年(1585)に秀吉が建てた有馬温泉の寝殿の一部であり、
② 秀吉の有馬温泉御殿の一部が、有馬氏に譲られたもので、
③ やはり有馬豊氏によって整えられたもの。
だということになるのだった。
ということは、もともとは寺社というよりは、別荘御殿のような場所だったのが、現在のように寺院へとしつらえ直されたものなのかもしれない。
ところで、「梅林寺」とは、則頼の戒名「梅林院」にちなんで名づけられたのであろうか?
則頼の葬送に関しては、実は三田心月院はいっさい話に出てこない。淡河天正寺と、福知山大龍寺だけが、話に登場する。
それなのに、三田にある「梅林寺」が無関係ないのは、解せないではないか?!
そこで、どなたか詳しい人がいればお教え願いたいのだが、
① 秀吉の寝殿遺構を用いた居所が、有馬城の付近にしつらえられた。
② そこを「梅林寺」と呼んだか、「梅林院」と呼んだかわからないが、生前の三田藩主としての則頼が居所にしていた。
③ その場所にちなんで、則頼の戒名が「梅林院」となった。
④ その名にちなんで、久留米の大龍寺は「梅林寺」に改称した。
という説はどうだろう!!!
というわけで、このネタ、裏づけ史料をもうちょっと探してみることにしよう。
「有馬郡誌」によると、もう少しわかりやすい解説が載っていた。
近代デジタルライブラリー 「有馬郡誌 上」 コマ206
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1174068
原文古語につき、訳しておく。
『 心月禅院 ・・・天正13年太閤秀吉有馬温泉へ入湯の折、この地に寝殿を建設した。
後に有馬法印が領主となると、これを西山に移し、僧舎を建てて梅林寺と呼んだ。
これが、現在の心月院の跡址である。
それからおよそ50年間の住職交代などは詳細がわからない。
そして、寛永10年に鳥羽城主九鬼嘉隆が三田に入ると、梅林の跡址に一寺を建立し、天翁院心月と称した 』
・・・ただし、上記には錯誤があって、実際に三田藩に入ったのは、嘉隆の孫の代、「久隆」であることは要注意である。
また、現在の心月院の山号は「清涼山」に変わっている。
さて、有馬法印とは誰あろう、「有馬則頼」その人である。 その則頼自身が、この寺を
「梅林寺」
と呼んだのである。
だとすれば、則頼が亡くなった後、「梅林院」の戒名がついたのは、この「梅林寺」が元になっているに相違ない。
これで、すべての謎がとけたのである。
もう一度、まとめてみよう!
久留米の梅林寺の前身は、福知山の大龍寺であり、これは、有馬氏と有馬藩の全体の菩提寺という意味合いが強かった。
そこへ、有馬豊氏は、父の菩提寺である、淡河天正寺から、父の霊を久留米に改葬する。
そして、父の戒名である梅林院にちなんで、新しい久留米大龍寺を「梅林寺」と称した。
しかし、その梅林の名は、本来三田にあった有馬則頼個人の寺(屋敷)であった、「梅林寺」に由来するものであった。
つまり、梅林寺には
「お寺としてのルーツ」と「名前のルーツ」の二つ
があったのである!!バババーン。
以上、QED。
2016年4月21日木曜日
<119>久留米梅林寺の謎を解け!!(その2) ~筑後と丹波を結ぶ「点と線」は松本清張ミステリー~
前回に引き続いて、
兵庫県三田市の「心月院(もと梅林寺)」と
京都府福知山市の「瑞巌寺(梅林寺前身)」との
謎に迫ってゆくわけだが、新たな事実が登場する。
なんと!三田で亡くなった有馬則頼は、まずは淡河の「天正寺」へと葬られたというのだ!!
ウィキペディアより 有馬則頼
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E9%A6%AC%E5%89%87%E9%A0%BC
前回の記事を参照してほしいが、淡河地域というのは、三田・有馬地域に隣接する、いわば「有馬氏の本領中の本領」である。
そのため、則頼は、まっさきに「実家のエリア」に葬られたということになる。
じゃ、じゃあ、心月院と瑞巌寺は何なんだ?!
となるのだが、さらに謎が深まるところ。
では、謎解きを進めていこう。
==========
福知山の瑞巌寺は、これまた資料によると、「わけのわからない」事情が隠されている。
角川地名大辞典 引用
『天明2年「奥野部村庄屋弥兵衛覚書福知山領田高畑高控」によれば木村後ろ町高191石余の記載があり,同高のうち3石余は奉公人屋敷というこの地は享保8 年受取主を絹屋小兵衛として城下町分に渡されたもので(天田郡志資料),城下町の富豪が町民や村民に小作させていたというなお稲葉紀通時代の絵図には,木村口を出たところに瑞巌寺跡が見えるもと同地には,慶長5年有馬豊氏が大竜寺を創建したが,転封に伴い筑後久留米へ移され,その後に岡部長盛の手により瑞巌寺が建てられた同寺も長盛の転封に伴い美濃大垣に移された」
福知山は、丹波国天田郡に属するが、そのうち木村というところに、福知山城が建てられた。
この木村付近に「瑞巌寺」があったらしく、この地に、
慶長5年に有馬豊氏が「大竜寺」を創建
↓
それを久留米を持ってゆく
↓
跡地が岡部氏による「瑞巌寺」となり
↓
それを美濃大垣へ持っていった
という流れだという。
さらにしっちゃかめっちゃかである!!(笑)
ということは、
① 福知山にあった寺の名前は、「大竜(龍)寺」であり、それを久留米に持っていって、当初「大龍寺」と称した。
② その跡地を岡部氏が「瑞巌寺」として再建し、さらに移動させたたので、そこが瑞巌寺跡になった。
③ 瑞巌寺跡という地名が残ったので、梅林寺の前身が「瑞巌寺」だと誤解された。
ということなのであろう。
そして、さらに興味深いことに、有馬豊氏が「大龍寺(福知山)」を建てた時は、まだ則頼パパは生きているのである!!
パパが亡くなったのは、慶長7年なので、大龍寺(福知山)は、福知山藩の鎮守でこそあれ、パパ則頼の慰霊寺ではないということになる。
==========
さて、大龍寺が出来て2年後、パパ則頼が死去する。そこで、その亡骸は、本領である淡河の「天正寺」へと葬られた。
このあたりの事情は、
神戸大学さんのページ
http://www.lit.kobe-u.ac.jp/~area-c/ougoseminar.html
㈱河上建築事務所さんのサイト
http://www.kawakami-arch.com/08text/08text3_index.html
を読めば概略が見えてくる。
① 淡河の「長松寺・天正寺」には、江戸時代になっても則頼の位牌があり、久留米藩士にとって、ルーツであることが確認されていた。
② 1620年に、福知山から久留米へ転封になった豊氏は、1621年に久留米梅林寺(ただし、その時はまだ大龍寺)を建立。
③ 1626年になってから、淡河天正寺から、則頼のお墓を久留米へ改葬する。
のがこの間の動きだというわけだ。
ということは、久留米大龍寺は、もともと「有馬家にとっての菩提寺、鎮守寺」であり、そこに、「父のお墓を持ってきた」ということになる。
そして、父則頼の「梅林院」にちなんで、大龍寺を「梅林寺」と改称した、ということなのである。
では、三田にあった「梅林寺」はいったいどういう由来によるものなのであろうか?!
謎は、まだ残っているのであった!
つづく!
兵庫県三田市の「心月院(もと梅林寺)」と
京都府福知山市の「瑞巌寺(梅林寺前身)」との
謎に迫ってゆくわけだが、新たな事実が登場する。
なんと!三田で亡くなった有馬則頼は、まずは淡河の「天正寺」へと葬られたというのだ!!
ウィキペディアより 有馬則頼
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E9%A6%AC%E5%89%87%E9%A0%BC
前回の記事を参照してほしいが、淡河地域というのは、三田・有馬地域に隣接する、いわば「有馬氏の本領中の本領」である。
そのため、則頼は、まっさきに「実家のエリア」に葬られたということになる。
じゃ、じゃあ、心月院と瑞巌寺は何なんだ?!
となるのだが、さらに謎が深まるところ。
では、謎解きを進めていこう。
==========
福知山の瑞巌寺は、これまた資料によると、「わけのわからない」事情が隠されている。
角川地名大辞典 引用
『天明2年「奥野部村庄屋弥兵衛覚書福知山領田高畑高控」によれば木村後ろ町高191石余の記載があり,同高のうち3石余は奉公人屋敷というこの地は享保8 年受取主を絹屋小兵衛として城下町分に渡されたもので(天田郡志資料),城下町の富豪が町民や村民に小作させていたというなお稲葉紀通時代の絵図には,木村口を出たところに瑞巌寺跡が見えるもと同地には,慶長5年有馬豊氏が大竜寺を創建したが,転封に伴い筑後久留米へ移され,その後に岡部長盛の手により瑞巌寺が建てられた同寺も長盛の転封に伴い美濃大垣に移された」
福知山は、丹波国天田郡に属するが、そのうち木村というところに、福知山城が建てられた。
この木村付近に「瑞巌寺」があったらしく、この地に、
慶長5年に有馬豊氏が「大竜寺」を創建
↓
それを久留米を持ってゆく
↓
跡地が岡部氏による「瑞巌寺」となり
↓
それを美濃大垣へ持っていった
という流れだという。
さらにしっちゃかめっちゃかである!!(笑)
ということは、
① 福知山にあった寺の名前は、「大竜(龍)寺」であり、それを久留米に持っていって、当初「大龍寺」と称した。
② その跡地を岡部氏が「瑞巌寺」として再建し、さらに移動させたたので、そこが瑞巌寺跡になった。
③ 瑞巌寺跡という地名が残ったので、梅林寺の前身が「瑞巌寺」だと誤解された。
ということなのであろう。
そして、さらに興味深いことに、有馬豊氏が「大龍寺(福知山)」を建てた時は、まだ則頼パパは生きているのである!!
パパが亡くなったのは、慶長7年なので、大龍寺(福知山)は、福知山藩の鎮守でこそあれ、パパ則頼の慰霊寺ではないということになる。
==========
さて、大龍寺が出来て2年後、パパ則頼が死去する。そこで、その亡骸は、本領である淡河の「天正寺」へと葬られた。
このあたりの事情は、
神戸大学さんのページ
http://www.lit.kobe-u.ac.jp/~area-c/ougoseminar.html
㈱河上建築事務所さんのサイト
http://www.kawakami-arch.com/08text/08text3_index.html
を読めば概略が見えてくる。
① 淡河の「長松寺・天正寺」には、江戸時代になっても則頼の位牌があり、久留米藩士にとって、ルーツであることが確認されていた。
② 1620年に、福知山から久留米へ転封になった豊氏は、1621年に久留米梅林寺(ただし、その時はまだ大龍寺)を建立。
③ 1626年になってから、淡河天正寺から、則頼のお墓を久留米へ改葬する。
のがこの間の動きだというわけだ。
ということは、久留米大龍寺は、もともと「有馬家にとっての菩提寺、鎮守寺」であり、そこに、「父のお墓を持ってきた」ということになる。
そして、父則頼の「梅林院」にちなんで、大龍寺を「梅林寺」と改称した、ということなのである。
では、三田にあった「梅林寺」はいったいどういう由来によるものなのであろうか?!
謎は、まだ残っているのであった!
つづく!
<118>久留米梅林寺の謎を解け!!(その1) ~筑後と丹波を結ぶ「点と線」は松本清張ミステリー~
縁とは不思議なもので、私の父の実家は久留米藩領であり、久留米藩主有馬氏は、私の母方の曾祖母とおなじ赤松氏の系である。
そしてまた、現在私が居を構えているのも、久留米に赴任する前の有馬氏の領内であり、兵庫県には、有馬氏の痕跡がいたるところに残っている。
ということもあって、実は仕事がらみで旧有馬藩、つまり現在の兵庫県三田市の「心月院」へと赴くことになった。
実は、兵庫県の三田藩は、有馬氏のあと九鬼氏が治めていたのだが、三田城の跡地は
「有馬高校」
という県立高校になっている。
心月院も、ほぼおなじエリアにあり、九鬼家の廟所が境内にある。
お庭も手入れが行き届いており、古刹らしさをうかがわせる。
==========
さて、この心月院、興味深いことが書いてある。
『この地にあった梅林寺を増築し、心月院とした』
ここで、久留米藩に近しい人ならピンとくるはずである。
九鬼家が、この寺を心月院として菩提寺としたのはよくよくわかるが、その前身が
梅林寺
だというのであれば、これは先代藩主の有馬氏の寺であることは瞭然である。
なぜなら、現在の久留米においても、久留米城ほど近くの藩主有馬氏の菩提寺はおなじく「梅林寺」と称するからである。
==========
梅林、という寺号は、そもそも有馬則頼の戒名である「梅林院」に発する。慶長7年に三田において死去した則頼は、おそらくは当初この心月院となる前の「梅林寺」に葬られたことであろう。
だが、だがしかし。ここから、謎のミステリーがはじまるのである!!!
まずは、ウィキペディアの梅林寺の項目を読んでみよう。
ウィキペディアより「梅林寺」
賢明な諸氏なら、すぐに不可思議な点に気づくはずだ。なぜなら、ウィキ的には、
「はじめ、寺は丹波国福知山に立地、瑞巌寺と称していたが、1620年に福知山から久留米に転封された有馬豊氏が、翌年に今の場所に遷座して大龍寺と称した」
と書かれているからである。
ここには、三田の心月院のことはいっさい出てこない。それどころか、梅林寺の前身は、「福知山の瑞巌寺だというのである。
ここで、ひとつ押さえておかなければならない事情があり、それは、久留米へ移動する前の有馬氏は、
① 丹波国福知山城を拠点として有馬豊氏が、6万石の福知山藩を立藩した。
② 豊氏の父有馬則頼は、それとは別に摂津国三田に2万石領有していた。
③ 慶長7年(1602)に則頼が死去したため、豊氏は父の領地ももらい計8万石になった。
という経緯である。
ここで、福知山と三田がまずは、繋がる。
☆ おまけに蛇足を書いておくと、有馬豊氏は福知山に来る前は横須賀にいたが、そのこと自体は「単なる転勤」である。それよりも、有馬氏が有馬温泉の「ありま」を名乗っているように、室町時代~戦国時代までの本来の本領はむしろ摂津三田、摂津有馬地域であり、その意味で三田藩の立地は重要ポイントだという事情が裏に隠れている。
さて、話を続けよう。三田と福知山を領地にした有馬氏が、実際に久留米に飛ぶのは、18年後の1620年のことである。
そして父の菩提を弔うために1621年には、久留米梅林寺を建立することになるので、カンタンに言えば、豊氏は、愛する父の仏壇を持っていったことになるわけである。
そこで、クエスチョンである!
久留米梅林寺の前身は、どうして福知山説と三田説があるのか?
18年間、有馬頼則の菩提寺は、結局福知山と三田のどちらにあったのか?
心月院の正体とは?
以下、その謎を解き明かすべく、次回へつづくのであった!!
2016年4月20日水曜日
<調査中>岡山県の大塚さん(追補) 三人の大塚氏の謎?!
もうずいぶん前に、岡山の大塚さんについて考察していたのだが、
<調査中><63>岡山県の大塚さん ~陣内孝則さんを見ると涙がでちゃう~
玉野市に則武姓から大塚姓へ変わった一族がおられることを挙げていた。
ところが、興味深いことに、この玉野市に「別の?」大塚氏が存在することがわかったのである。
大崎歴史コース サイトより
岡山県内五輪塔 さんのサイトより
おなじ玉野市でありながら、こちらの大塚氏の元姓は
「国富氏」
になっている。
さらに、おなじ麦飯山城の戦いの後日談として、
横田コミュニティサイト さん
を参考にすると、こちらの大塚氏は
「横田氏」
でもあることがわかる。
さあ、則武・国富・横田の3つの名字と大塚氏が関係しそうなのだが!この謎やいかに!!!
==========
というわけで、謎解き開始。
まず、岡山県玉野に「常山城」と「麦飯山城」が隣同士のように建っている。
常山城のもともとの城主は「上野氏」であり、彼らは備中の戦国大名「三村氏」の親戚であった、という。
天正3年に毛利氏によって三村氏は攻撃を受け、三村系が最後に立てこもったのが常山城であり、上野氏も滅亡。
のちに豊臣時代になって、宇喜多氏家臣の「戸川秀安」がこの地に入る、という流れである。
この戸川秀安は「友林」と号していたので、その廟所が「友林堂」となる。
ということは、友林の位牌を守っていた則武大塚氏は、宇喜多系・戸川家臣ということになろう。
前回の記事で、則武氏はもと武田氏で、宇喜多に仕えたということがわかっているので、これは話が合致する。
===========
さて、おとなりの麦飯山城であるが、ここで起きた戦いは、先の横田コミュニティサイトさんに別に説明がある。
http://www.yokota-chiku.org/culturalassets1.html
カンタンに言えば、麦飯山は、宇喜多氏の支城で「明石氏」の居城だったのだが、毛利・小早川に攻められて滅んだわけである。
これで、常山と麦飯山の関係がちょっと明らかになった。
==========
さて、国富大塚氏は、常山落城に際して、 玉野市八浜町大崎に帰農して大塚姓となった。つまり、この大塚氏も、宇喜多家臣である。
ところで、明石氏が滅んだのは1579年のこと。
1763年にこの地の大庄屋、大塚与兵衛(子孫は横田氏)が81歳で亡くなっている。
http://www.yokota-chiku.org/whatsnew/shinchaku/yokota_658.html
この家系については
ごさんべえさんのサイト
http://gos.but.jp/yokotat.htm
に詳しく追跡が載っている。
そして、これと合致する系図が、おなじごさんべえさんのサイトにあり、
http://gos.but.jp/otsukat.htm
国富氏がルーツである、と合致するのである。
==========
これで、おおむねの結論が出てきた。
この地の大塚氏には「則武系」と「国富系」の2氏があって、国富系からは、住んでいた土地の名をとって「横田氏」が出た、ということで落ち着きそうだ。
まず、岡山県玉野に「常山城」と「麦飯山城」が隣同士のように建っている。
常山城のもともとの城主は「上野氏」であり、彼らは備中の戦国大名「三村氏」の親戚であった、という。
天正3年に毛利氏によって三村氏は攻撃を受け、三村系が最後に立てこもったのが常山城であり、上野氏も滅亡。
のちに豊臣時代になって、宇喜多氏家臣の「戸川秀安」がこの地に入る、という流れである。
この戸川秀安は「友林」と号していたので、その廟所が「友林堂」となる。
ということは、友林の位牌を守っていた則武大塚氏は、宇喜多系・戸川家臣ということになろう。
前回の記事で、則武氏はもと武田氏で、宇喜多に仕えたということがわかっているので、これは話が合致する。
===========
さて、おとなりの麦飯山城であるが、ここで起きた戦いは、先の横田コミュニティサイトさんに別に説明がある。
http://www.yokota-chiku.org/culturalassets1.html
カンタンに言えば、麦飯山は、宇喜多氏の支城で「明石氏」の居城だったのだが、毛利・小早川に攻められて滅んだわけである。
これで、常山と麦飯山の関係がちょっと明らかになった。
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さて、国富大塚氏は、常山落城に際して、 玉野市八浜町大崎に帰農して大塚姓となった。つまり、この大塚氏も、宇喜多家臣である。
ところで、明石氏が滅んだのは1579年のこと。
1763年にこの地の大庄屋、大塚与兵衛(子孫は横田氏)が81歳で亡くなっている。
http://www.yokota-chiku.org/whatsnew/shinchaku/yokota_658.html
この家系については
ごさんべえさんのサイト
http://gos.but.jp/yokotat.htm
に詳しく追跡が載っている。
そして、これと合致する系図が、おなじごさんべえさんのサイトにあり、
http://gos.but.jp/otsukat.htm
国富氏がルーツである、と合致するのである。
==========
これで、おおむねの結論が出てきた。
この地の大塚氏には「則武系」と「国富系」の2氏があって、国富系からは、住んでいた土地の名をとって「横田氏」が出た、ということで落ち着きそうだ。
2016年4月18日月曜日
<基礎資料> 戦国「軍記物」総覧 <常に追加更新中>
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==========
注意:今回の記事は、歴史研究や先祖探しのために皆さんが利用し易いようにまとめた目録のみです。
最終更新日 2016.4.18
★当目録は、姓氏調査のために使用できる戦国時代の争乱に関する「軍記物(ならびにその類)」についてまとめたものである。
★当目録では各軍記物類について、
①書名・発行者などの情報
②現在における入手・閲覧方法(特にWEB等)
を随時更新して記載してゆく。
★分類についてはウィキペディアに準ずる。
軍記物
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E8%A8%98%E7%89%A9
====================
■ 両細川の乱~三好家の台頭(畿内)
◇ 「室町殿物語」
国史叢書 国史研究会T3
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/948825
◇ 「瓦林正頼記」
史籍集覧 第十三冊
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920348
■ 永享の乱~享徳の乱(関東)
◇ 「鎌倉公方九代記/鎌倉九代後記」
国史叢書 国史研究会T3
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/948807
同
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3441709
■ 東北の戦乱
◇ 「老士雑談」
史籍集覧 第十三冊
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920348
◇ 「会津四家合考」
国史叢書 国史研究会T4 その1
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3441723
国史叢書 国史研究会T4 その2
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3441724
■ 関東の戦乱
◇ 「加沢記」
上毛郷土史研究会T14
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020961
◇ 「上州知乱記」
国史叢書 国史研究会T4
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3441725
◇ 「小田軍記」「千葉伝考記」「里見九代記」
国史叢書 国史研究会T5
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3441729
◇ 「北条五代記」
史籍集覧 第五冊
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3431172
◇ 「那須記」
史籍集覧 第十四冊
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920363
■ 甲信越の戦乱
◇ 「武田三代軍記」
国史叢書 国史研究会 その1
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3441730
国史叢書 国史研究会 その2
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/948812
◇ 「甲乱記」「理慶尼の記」「甲陽異聞録」
国史叢書 国史研究会
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/948812
◇ 「川中島五度合戦次第」
史籍集覧 第十四冊
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920363
■ 東海の戦乱
◇ 「美濃国諸旧記」
国史叢書 国史研究会T4
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/948838
◇ 「飛州軍覧記」「飛州千光寺記」「飛州三沢記」
史籍集乱 第十四冊
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920363
■ 近畿の戦乱
◇ 「勢州兵乱記」
史籍集覧 第二十五冊
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920418
◇ 「浅井日記」「浅井物語」
国史叢書 国史研究会T4
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/948832
■ 中国の戦乱
◇ 「安西軍策」
史籍集覧 第七冊
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3431174
◇ 「芸候三家誌」
国史叢書 国史研究会T7
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/948831
■ 四国の戦乱
◇ 「南海通紀」
史籍集覧 第七冊
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3431174
■ 九州の戦乱
◇ 「豊薩軍記」
史籍集覧 第七冊
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3431174
◇ 「北肥戦誌(九州治乱記)」
国史叢書 国史研究会T7 第一巻
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3441745
国史叢書 国史研究会T7 第二巻
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3441746
◇ 「肥陽軍記」
史籍集覧 第十五冊
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920302
◇ 「大友公御家覚書」
国史叢書 国史研究会T5
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3441727
◇ 「島津家譜」「島津家代々軍記」
史籍集覧 第十五冊
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920302
◇ 「菊池伝記」
史籍集覧 第三冊
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3431170
■ 織田信長の合戦
◇ 「信長公記」
史籍集覧 第十九冊
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920322
◇ 「名古屋合戦記」「清須合戦記」
史籍集覧 第十三冊
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920348
◇ 「長篠合戦物語」
史籍集覧 第十三冊
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920348
◇ 「浅井三代記」「朝倉始末記」
史籍集覧 第六冊
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3431173
◇ 「高松城攻之物語」
史籍集覧 第十五冊
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920302
■ 豊臣秀吉の合戦
◇ 「太閤記」
史籍集覧 第六冊
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3431173
◇ 「佐久間軍記」
史籍集覧 第十三冊
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920348
◇ 「蒲生氏郷記」
史籍集覧 第十四冊
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920363
■ 徳川家康の合戦
◇ 「石田軍記」「仙道軍記」
国史叢書 国史研究会T3
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/948827
◇ 「会津陣物語」
史籍集覧 第十四冊
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920363
◇ 「豊内記」
史籍集覧 第十三冊
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920348
◇ 「真田記」「真田氏大阪陣略記」
史籍集覧 第十四冊
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920363
◇ 「島原記」
史籍集覧 第二十六冊
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920433
■ その他
◇ 「毛利秀元記」
国史叢書 国史研究会T4
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◇ 「脇坂家伝記」
史籍集覧 第十五冊
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920302
◇ 「一柳家記」
史籍集覧 第十四冊
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920363
◇ 「有馬晴信記」
史籍集覧 第十五冊
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920302
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