昨日のニュースで、興味深い話題が挙がっていました。
夫婦別姓 最高裁が憲法判断 (弁護士ドットコムさん)
http://www.bengo4.com/topics/2703/
<最高裁大法廷>民法の夫婦同姓、再婚禁止期間…憲法判断へ
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150218-00000101-mai-soci
現在、法律的には夫婦は同姓でどちらかの姓を名乗らなくてはいけませんが、通称としては会社勤めなどで旧姓を使うことはけっこう行われている事例があります。
さて、この問題!いよいよ最高裁が「結論を出す」つもりになっているわけですが、姓氏家系研究家としては、その判断が気になるとともに、
おおかたの予想はつく
というのが正直なところ。
っていうか、最高裁の判断としては「こういう結論しかない」とぶっちゃけ答えは決まっているように思います。
というわけで、まだ答えが出ていない今日の段階で
「最高裁の判決を大予言スペシャル!」
と題してお届けしてしまいましょう。さあ、夫婦別姓はどうなるのか?!
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さて、ここからはみなさんの一般常識とはすこしかけ離れた視点で話がすすんでゆきます。私たちにとって「どうか」ということよりも、「この国は(裁判所は)、国のありかたと家族のありかたをこう考えている」という視点で、みなさんも考えてみてください。
私たちにとっては、「夫と妻がいて、その血を受け継いだ子どもがいる」という形態を基本的な家族だと思っていますが、裁判所はちょっと違った見方で家族を定義しています。
それは、
「夫という枠があり、妻という枠があり、子という枠がある」
というのがまず第一段階です。もう少しくわしく言えば
「夫という役割を演じる配役が1枠あり、妻という役割を演じる配役が1枠あり、子という役割を演じる枠がいくつかある」
というイメージです。
もっといえば、最近の裁判所の考え方では男女同権ですから夫・妻という考え方もなくてOKです。
「世帯主という人物の枠があり、その配偶者の枠があり、その子という枠がある」
これが、日本のすべての家族の基本形だと考えているのです。このユニットは、国家を形作る最小単位ですから、その形ですべての戸籍は作られています。
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さて、ここからみなさんの考える一般常識とは、ずれてきます。
用意されているのはすべて「枠」ですから、枠にさえ当てはまっていればそこに入る人物は誰でもかまいません。
夫・妻・子という3つの枠に対して、夫が「女性」、妻が「女性」でもOKです。(性同一性障害を持つ人の結婚など)
夫・妻・子という3つの枠に対して、血が繋がっていない子でもOKです。(養子制度など)
そもそも、夫・妻は男女同権ですので、どちらの姓をチョイスしてもいいし、どちらが世帯主になってもOKです。(姓は妻の姓を称して、世帯主は夫でもいいのです)
☆ただし、「戸籍の筆頭者は妻になる」。住民票上の世帯主は、どちらでもよい)
極端にいえば、三人が三人とも全然血縁関係がなくても、家族という枠組みは成立するし、現在もそうした家族は存在するわけです。
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ここまでの考え方については、実は以前の記事でも示しています。
<話題>最高裁判決は、”戦国時代”で読み解け! DNA父子訴訟の真の意味
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/07/dna.html
この記事でもわかるとおり、裁判所は「箱」(今回の記事では「枠」)と役割を重視しているので、血縁がどうとか、個人の権利がどうとかは別の次元でものを考えていることがはっきりわかります。
では、いよいよ結論ですが、夫婦別姓はどうなるのか?
結論:「夫婦別姓は認められない」
その理由。原理原則論でいえば、
家族は「3つの枠をもつ箱」なのであるが、その箱が「他と違うユニーク(個別)なものである」ということを示すラベルが
苗字
であるため、ひとつの箱に2つ以上のラベルをつけるのはふさわしくないから。
ということになりましょう。
補足していえば、夫婦別姓だとおなじ箱に属しているかどうかがわかりにくくなり、もっといえば
「個人」という箱
を認めないかぎり成立しなくなります。戸籍制度もそうだし、日本のあり方、社会制度のあり方が、まだ個人という箱単位で考えられていないため、これを認めると社会システムをすべてどんぶり返さなくてはならなくなるので、認めることは不可能なのです。
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まあ、もっともこんな説明を裁判所はしません。この話は内緒にしておいて、一般の人にはもう少しわかりやすい説明をしてくれるはずです。
では、姓氏家系研究家であるこのワタクシが、裁判所が口先でつかう言い訳まで予言しちゃいましょう!!!
なーんて。
夫婦別姓による、誰にでもわかりやすい問題点はひとつだけです。それは「こどもの姓はどうするのか」ということです。これを裁判所的には
「父母の姓が別だと、子どもが(制度的に)混乱し、こどもの利益が損害されるから棄却するのだ」
という言い方をするでしょう。
「こどもが利益を損ねることのほうが、親が不自由を感じることよりも問題が大きいので親の利益を制限する」
という言い方もします。こどもが可哀想やろ? わかりやすいですね。
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というふうに一般の人への説明はこれでOKですが、専門的にはもっとややこしい問題が潜んでいます。
夫と妻が別々の姓を維持した場合、こどもはどちらの姓を名乗るかについては、どちらでも権利的にはOKです。
しかし、こどもは権利として自由に姓を選べません(20歳未満は責任をとれません)から、20歳時点であらためて姓を自分の責任で選択する制度を設けなくてはなりません。
すると、すべての国民が、一度は自由に姓を変えられることになり、親と子が別であるどころか、大学在学中に半分くらいみんな姓が変わるとか、18歳で就職した人の厚生年金リストが、20歳で半分くらい書き換わるとか、
それはもう無茶苦茶になり、公共の利益に完全に反する
ことが生じます。
だからどう考えても無理なんですね。
なので、事態は
「戸籍制度の枠組みを最小家族から個人へと変更する」
という議論を経ないとダメなのです。
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ちなみに、戦国家系研究の場面においては、奥さんの苗字というのは「どこの氏族の出か」ということをきちんと把握するためにずっと記憶・記録されており、夫婦同姓のように「抹殺」されることはありませんでした。
正式な家系図には、妻「だれそれ氏の出」」ということがちゃんと明記されています。
そういう意味では、夫婦別姓でしたので、考え方としてはやはり
「家という箱、父という枠・子という枠を維持継続するための、ツールとしての妻(母)という枠」
のニュアンスだったのでしょう。男尊女卑ですから、家系の主体は基本男性です。
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