2025年5月10日土曜日

戸籍制度は、明治の「マイナンバー」だった

 

 ルーツ調べやご先祖様に関わる一番のデータは「戸籍」となるわけですが、世界的に見ると「家族単位で集団を認定する戸籍」のような制度は、東アジアにしか存在しないと言われています。

 とくに欧米では個人の概念が発達していますから、社会保障番号のようなマイナンバーは存在しますが、「戸籍」というシステムは、もともと存在していないのです。

 わかりやすい考え方で言えば日本の「住民票」のようなものが、海外では個人を識別するベースになっているという感じですね。

 さて、その「戸籍」ですが、皇居の住所である「東京都千代田区千代田1番」を登録する人が多く、千代田区ではその手続きにてんてこ舞いになっている、なんてニュースが話題になったりしました。

 現代の法律では「戸籍を置く場所=本籍」は存在している住所であればどこに登録してもよいので、実際に皇居の住所を本籍地としている人が3000人くらいいるそうです。


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 さて、私の本籍地は、父方の一族がルーツとしている「福岡県」になっています。いわゆる本家(私からみると、今はいとこが住んでいます)の住所を登録していますが、そのおかげで自分たちのルーツがどこにあるのかがわかりやすくなっています。

 しかし、そうした氏族の思い入れがある地域を本籍とし続けることは、もちろんOKなのですが、ぜんぜん縁もゆかりもない地域に設定することもできるわけで、それなら

「なんのために戸籍、本籍地があるの?」

という疑問が生じるのも、自然なことかもしれません。現実的には住民票登録があるのですから、行政的なことはそれで事足りるわけですが、なぜ日本では戸籍が残っているのでしょうか?

 この問題を考えるには、「江戸時代」にどうであったか?というところから遡らなくてはなりません。

 一般常識や日本史の教科書でもご存知の通り、江戸時代は「キリシタン」が禁じられたため、「キリシタンではありませんよ」ということを証明するために、すべての民は「どこかのお寺の檀家として、そのお寺にぶら下がって管理される」ことになっていました。

 これが今も、お墓や法事などでお世話になる「旦那寺と檀家の関係」のスタートです。仏教の宗派に所属しているので、おのずとキリシタンではない、という証明になったわけですね。

 こうして各地の寺は、「宗派の管理」という側面から発展して、江戸幕府における「戸籍の代わり=人員の把握」に用いられるようになりました。

 これらの情報が書いてあるのが「宗門人別帳」ですが、実はこの「宗門人別帳」に書かれていない人たち、というのが現れ始めたのです。

 いろいろな諸事情で縁を切ったり切られたりして、どこかの寺に所属していない人たちは「無宿人」と呼ばれ、こうした人達をはじめ「把握されていない人員」が生じてしまったのが、江戸時代の限界でした。

 さらに江戸などの都市が発展すると、「どこにも所属していない」「どこでも管理されていない」「誰にも把握されていない」人たちが存在することになってしまいます。

 もともとの土地と縁付いてもいないので、他所へ行ってしまうと、本当に「誰」なのか把握できないことになってしまったのですね。

 江戸時代の間は、なんとかそれでも誤魔化しながらやってこれたのですが、
問題は明治になった時です。

 明治政府は富国強兵を打ち出すので、確実に「徴兵」して人員を管理しなくてはいけなくなりました。その際に「徴兵逃れ」が頻発してしまうと、そもそも誰もまじめに兵隊にいかず、逃げてしまいますから、まさに「国民総背番号制度」のように「マイナンバー」が必要になったのです。

 そうして整備されたのが現行の「戸籍」です。個人個人のマイナンバーではなく、「家単位」で整備したので「”戸”の籍」なのですが、考え方は同じで、もれなく人員を書きつけるために整備された、というわけですね。

 日本の戸籍の場合、「もれなく書きつける」ことは大事ですが、その帳簿をどこが管理するかは、実はどこでも良いわけで

■ 国家が一元管理して、どこか東京のデータセンターに全部置く

でもかまいません。

 ところが明治政府はそれをやらず、

■ その一族(とその家の個人)が、その時住んでいた地域の市町村

などに原簿を置かせたわけです。

 そういうわけで、もともとの戸籍は、その一族やその家があった地域で管理されることになりましたが、その後、時代が進んで「転居の自由」などが進んでくると、

■ 原簿が置いてあった場所

だけが残ってしまった、みたいなことになっているのが現状です。

 こうして現在の本籍地は「もともとの原簿の管理されていた場所」くらいの意味しかなくなったのですが、たとえば仮にすべてが東京に置かれていたら、空襲で全部燃えてしまったとか、地震でデータがすべて飛んでしまったとか、そういうことも起こり得ますから、分散して管理されていたのは、それはそれで良かったのかもしれません。

 現在のマイナンバーのデータは、テロなどを防ぐために「どこにデータセンターがあるのか」は公表されていませんが、おそらくは分散してなおかつ何重かの同じデータが複数で管理されているものと思われます。


2025年4月20日日曜日

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2025年3月17日月曜日

<131> 古賀伊豆関連の補足・追加 〜古賀伊豆の”それ以前”?〜

 

 「大塚隠岐」関連の調査中ですが、いったん「古賀伊豆」ネタを挟みます。

 天正時代に、筑後三潴郡の八丁牟田に来た「古賀伊豆」と絵下古賀に来た「隠岐」ですが、そもそも、どちらも「龍造寺家臣」とは寛延記に書かれているものの、実はふたりとも龍造寺軍団における立ち位置がよくわかっていません。


 「隠岐」については、神代家臣の「大塚隠岐」ではないか?と推定していますので、彼自身は「神代長良」がもともとの主君で、「龍造寺隆信」配下になり、最終的には「鍋島直茂」の配下になったのかどうなのか?というあたりを調べている真っ最中ですね。


 古賀伊豆(守)については、その後「筑後国の大庄屋」になったことがわかっており、その後も古賀氏とその子孫についての記録はちらちらと散見できるのですが、実は「古賀伊豆の”それ以前”」がよくわからないのです。


 そこで、今回は、そのあたりがチラリと推測できそうな記述が見つかりましたので、メモ書きしておきます。



 ネタ元は「筑後国史」です。ある意味有名な「大庄屋のはじまり」の部分ですが、見落としがありました。


” 天正15年 小早川は筑前15郡と肥前のうち2郡、筑後のうち生葉・竹野2郡を賜う。

 隆景の代官、入江輿三兵衛と木原善右衛門が下向し、鍋島より原田大蔵を差し副えられ、3人同伴にて吉井に来たり、石井和泉(いまの大庄屋石井氏の祖)、古賀伊豆(数代大庄屋役たり、今下見役、古賀氏の祖)、田代興善(いま大庄屋田代氏の祖)、この三家に止宿し、この3人に大庄屋役を命ず”


となっています。


 小早川隆景により、筑後の大庄屋3人が命じられた、という話はこれまでに何度もしていますが、


■ 鍋島から「原田大蔵」という案内役が一緒に来ていた


という点は、完全に見落としですね。


 そうすると、現地案内役が鍋島から派遣されているので、大庄屋に任命された3人も、なんらかの形で鍋島の影響下にあったと考えてよいと思います。


2025年3月12日水曜日

<130> ”大隠岐”の謎に挑む 〜神代家伝記より〜 その2

 

 前回に引き続き、「神代家伝記」に登場する「大隠岐=大塚隠岐?=大塚新兵衛」関連の謎を、少しずつ解いてゆきます。


■ まず、最初に「杠清右衛門」から調査して杠家に残っていた資料から「大塚新兵衛」という人名を探り当てたところまででした。

 杠氏というのは、

https://www.hb.pei.jp/shiro/hizen/yuzurihashi-yakata/


室町時代に淡路からやってきた肥前・山内の地場豪族になった武家で、その後神代氏の重臣となった一族のようです。



■ 次に「江原平右衛門」の素性です。神代家伝記では、江原氏は武蔵から来た氏族で平姓、もともとは肥前千葉氏の家臣で、のち神代勝利に仕えるようになった一族のようです。

 ところが、子孫の江口氏には別の系図があり、そちらでは菅原姓となっています。

 江原丹後守和重 → 石見守重澄 → 重正(平右衛門) → と続くとのこと

【小城の歴史・第83号・令和3年】



■ 「神代太郎左衛門」は系図によると

 神代勝利 → 神代源内利光 → 神代太郎左衛門 → となり、神代一族です。おなじ名跡が、のちに小城藩士としても続くようです。



■ 「中野彦右衛門」の中野氏は肥前の御家人のようで、

”北肥戦誌は後藤三郎氏明の伯父塚崎十郎定明の子五郎頼明を中野五郎頼明と記し,頼明の代頃より中野姓を始めて”(「竹崎季長と霜月騒動」1996佐藤)

 元寇の頃から中野氏を名乗っているようです。


■ 「福嶋五郎右衛門」の福島氏はもともと八女郡の氏族で、神代勝利の別腹の兄(周防守利元)の母の父にあたる人物が「福島兵部太夫」であり、その系統と思われます。


■「神代源右衛門」も神代姓なので、神代一族ですが、承応3年の神代常宣家臣起請文に名前があるので、ふつうに神代一族と考えてよいと思います。



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今回はあっさりとここまで。実はちょっと別件が見つかったので、次回そちらをまとめます。

2025年3月4日火曜日

<129> ”大隠岐”の謎に挑む 〜神代家伝記より〜 その1

 

 これまでのおさらいです。私の先祖は、三潴郡絵下古賀村の「大塚」氏なのですが、一体全体この「大塚」一族は何者なのか?というところから物語は始まりました。


 そこで、この長ーいブログに書いていったとおり、あっちこっちを足掛け10年以上も調べ回ってある程度のことがわかってきたのですが、


■ 戦国時代の天正年間に

■ 八丁牟田には古賀伊豆(守)という武将がやってきて

■ 絵下古賀には古賀伊豆の部下である隠岐という武将がやってきた


というところまでが、江戸時代に書かれた寛延記(庄屋書上)によって判明したということになります。


 さて、この古賀伊豆と隠岐ですが、いずれも「龍造寺」の家臣とあるので、佐賀勢が筑後川を渡って三潴に駐屯していたようにも思えます。ところが、天下統一されてしまい、最終的には佐賀勢は川の向こうに引き上げてしまいますので、取り残されたような感じにもなっています。


 その後、古賀伊豆は小早川秀秋によって引き立てられ、筑後の大庄屋の3人のうちの一人となっているようです。これで彼はバッチリ帰農したわけですね。


 ところで、もう一人の「隠岐」ですが、絵下古賀の名字分布と、その軒数などから勘案して、この人物が私の先祖の可能性が高い「大塚隠岐(守)」ではないか?と推察してきました。


 大塚隠岐(守)は、神代長良の家臣で、戦で土生島城から逃れる時に自害しようとした長良を生かして脱出させた武将の一人として「北肥戦誌」や「歴代鎮西要略」などにも登場する武将です。


https://www.hb.pei.jp/shiro/hizen/habushima-jyo/

(土生島城は、隣の千布城の支城だったと思われる。千布城は、父の神代勝利の城)


 この段階で「隠岐」と「大塚隠岐」を結びつけてよいものか?という疑問が生じると思いますが、「隠岐」の年代と「大塚隠岐」の年齢・年代は矛盾がなく、なおかつどこの戦記を見ても「大塚隠岐が討ち死にした」という記述がないため、とりあえずは「同一人物と仮定しても、矛盾なく破綻はしない」ということになります。


 さて、ここからが最終段階。


 もともと、大塚隠岐(守)は、それほど功績がある武将ではないので、北肥戦誌や歴代鎮西要略にも、「さらっと」しか出てこないのですが、実は「神代家伝記」に、どうやら「大塚隠岐」のその後を描いたらしい記述があるのです。つまり、大塚隠岐は直茂時代まで生きているのです。

(神代勢は、その後、龍造寺家臣となり、鍋島家臣として引き継がれました)


 これがまた、「絵下古賀村に居着いてしまった隠岐は、大塚隠岐なのではないか?」という話と矛盾しないのですね。


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 では、いよいよその「神代家伝記」の内容へと踏み込んでゆきましょう。すこし注意が必要なのは、「神代家伝記」では、その前半部分で長良の部下を「犬塚隠岐守」と誤記の状態で書いており、非常にややこしくなっています。


 ただ、今回問題となる鍋島藩成立過程時期での記録は、正しく「大隠岐」と書いているので、そこは大丈夫と思われます。




 引用したのは「神代家伝記」のうち「下巻」の「九 犬法師丸殿御養子ノ事」のうち、最後尾あたりです。

 この章、非常にわかりにくく、犬法師丸の養子縁組に関して覚書というかメモみたいなことがいろいろ書き連ねてあるので、前後の文脈が飛び飛びになっています。


 犬法師丸とは、のちの神代家良であり、実は鍋島直茂の甥(=小河信俊の子)。なので、この時点で、神代家は鍋島の家臣としてガッチリ捉えられてしまうわけですね。


 そこで、肝心の文書はその折に、鍋島直茂が、7人の武将に対して出した手紙、ということになります。(5月27日付)


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 また、2枚めの真ん中以降は、「島田鶴栖」の名跡についてどのように処理するかの話が書かれているのですが、この島田鶴栖も、大塚隠岐が土生島城から神代長良を脱出させた時のメンバーで、おなじように北肥戦誌などに登場する武将です。


☆注☆

”島田鶴栖に娶らせていて、鶴栖の女子米女は実は長良の女子であった。長良は鶴栖の跡式を米女に中継相続させた上で三瀬百丸に入婿を命じたのであった。”(社会経済史学 第38)


(島田の名字を続けさせることが重要なので、長良が妊娠させていた女性を島田に娶らせ、その子<実は長良の娘>と三瀬百丸を結婚させて島田家を存続させた)


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 では肝心の鍋島直正の手紙に戻りましょう。

 手紙を出した相手は

■ 杠清右

■ 江原平右

■ 神太郎左

■ 大隠岐

■ 中野彦右

■ 福五郎右

■ 神源右


となっています。この書き方は「キムタク」みたいな略称になっているので、それぞれ、本来はもうちょっと長い名前ということになります。


 これらの人名を佐賀県立図書館の人名データベースと照合すると、


■ 杠清右衛門尉元滿

■ 江原平右衛門(尉)

■ 神代太郎左衛門(尉)

■ 大塚隠岐(守)か?

■ 中野彦右衛門(尉)

■ 福井五郎右衛門か?

■ 神代源右衞門(尉)


ではないか?と思われます。このうち、大隠岐と福五郎は推定です。(福地五郎〜という人名もあるため)


 さて、ここからです。


 この総勢7名、なにか事情があったとは推測できるのですが、その筆頭になっている「杠清右衛門尉」という人名で調べてみると意外なことが判明しました。


 次の資料は「佐賀県史料集成 古文書編 第17巻 (杠家文書)」からの引用ですが、ここではほぼ同じ人名で次のような記述になっているのです。



■ 杠清右衛門尉

■ 江原平右衛門尉

■ 神代太郎左衛門尉

■ 大塚新兵衛尉

■ 中野彦右衛門尉

■ 福嶋五郎右衛門尉

■ 神代源右衞門尉


 この文書によって「福嶋五郎右衛門」が確定し、なおかつ「大隠岐」が「大塚」であることが確定しました。さらに大塚隠岐がおそらく「大塚新兵衛」であることも判明したわけです。

 また、この文書は5月27日の直茂からの手紙の返事を、6月23日に書いたものの「案(控え?)」として杠家に残っていたものだと考えられます。

 さらにこの大塚新兵衛は、佐賀県立図書館の検索では「神代家文書目録」にしか登場しないため、確率的には「大塚隠岐=大塚新兵衛」で問題ないと推定します。



(つづく)





2024年4月2日火曜日

<128> 古賀伊豆関連の補足 〜新史料発見!〜

  

 八丁牟田村の「古賀伊豆」と、絵下古賀村の「大塚隠岐」は基本セットでみてゆくべきものなのですが、古賀伊豆のその後について新しい史料が見つかったので紹介しておきます。


 なかなか新しい資料や情報というのは、年にひとつかふたつくらい出てくればいいほうで、そのためにルーツ探しの解像度というのは、細かいところを突けばつくほど難しくなるものなのですが、新データがでてきてウキウキです(笑)


 その史料というのは、「上毛及上毛人」(上毛郷土史研究会)の昭和4年の記事でした。



 まずは大石久敬という群馬県の高崎藩士だった人物から、話は始まります。


https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E7%9F%B3%E4%B9%85%E6%95%AC-38995


 この人は、高崎藩士なのですが、もともとは久留米出身で、「古賀貞房」の子から、城島の大庄屋大石家に養子に入ります。

 その後、いろいろあって流浪し、なんと高崎藩で召し抱えられた、という人物。


 この久敬の略歴を追ってゆくと、なんとそこに「古賀伊豆」が登場するというわけです!


■ 大石久敬は、もと古賀氏であった。

■ 古賀氏は、菅原道真の子孫で、筑前古賀村を拠点として「古賀」を名乗った。

■ 中世に「古賀伊豆守」が出て、彼は筑後国八丁牟田に移り、国士となった。

■ 龍造寺隆信に属し、その後は鍋島氏に仕えた。

■ 伊豆守の養子は宗乗。

■ その後、帰農した。


 という流れ。


 大石氏の話も、それはそれで面白いのですが、それはまた別のお話として、引用しておきましたので、お暇があればお読みください。


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 以前の記事


<125> 筑後大庄屋の正体を探せ3 ~古賀伊豆を追いかけて~

https://samurai-otsuka.blogspot.com/2022/10/blog-post_13.html


あたりと比較しながら読んでゆくと、ふんわりと状況が見えてくるのですが、


□ 筑前古賀村出身/三潴郡古賀村出身 と話にすこし齟齬がある。 

□ けれど、結局龍造寺隆信に従った。のち鍋島にもついた。


というあたりは、概ね正しいのではないでしょうか?ところがさらに言えば


□ 秀吉勢が押し寄せてきたあとは、小早川に従った


というオチだと思います。


 特に龍造寺隆信亡き後からのバタバタは、とても大塚隠岐の動きと似ている感じがしますね。


 逆に、すこし謎なのは


□ 古賀氏の祖を菅原氏としている点


です。筑前国の古賀村はいくつかあるのですが、(上座郡古賀 糟屋郡古賀 など)たとえば上座郡の大庄屋古賀氏は少弐系だったり、

http://hiramatsu-asakura.jp/bi-liang-song-yomoyamahua/gu-he-da-zhuang-wu/

するので、この話はどこが出処なのかな〜、と思ったりもします。


 しかしまあ、結論としては、


「なんやかんやで地場にいた(筑前から筑後にいた)古賀氏から伊豆守が出て八丁牟田を拠点としたことは間違いなさそうで、なおかつ彼は龍造寺に従った」


という点については、確実っぽいですね。


 前後の文脈は難しくて、龍造寺に送り込まれて八丁牟田に来たのか、八丁牟田にいた者が龍造寺の軍門に下ったのかは微妙です。

 逆に考えると「大塚隠岐」はどうもある一定の時期以前は絵下古賀にはいなさそうなので、「送り込まれて絵下古賀に来た」と考えるのが自然なのですが、そうすると寛延記にあるように、


「大塚隠岐は古賀伊豆の家来?」


というニュアンスも、なんとも言えないなあ、と思います。同時期にやってきて、格上が古賀伊豆だった、ということは、ここまでは確かだろうとは思います。


 直接の主従関係なのか、それとも「格上・格下」の議論なのか。まだまだ探っていければ嬉しいですね。


 とりあえずは、ここまで!


2023年2月9日木曜日

<127> 新シリーズ「船津氏」のルーツを探る

  

 当家の「大塚氏」についてのルーツ調べが一段落したところで、今度は祖母方の「船津」姓について調べてゆきたい。

 

 「船津」という苗字は福岡県が最大分布で、

 

■ 福岡県に約500軒

■ 佐賀県に約200軒

 

のほか、熊本や長崎にもそれぞれ200軒ずつ程度の広がりがある。

 

 その他は関東地方などに飛ぶので、こちらは語源が異なると考えてよいだろう。

 

 おそらくだが、福岡県内でもいくつかの語源があり、また佐賀とは別と思われる。

 

 

 <福岡県の船津>

http://shofuku.nobushi.jp/imakogatizu.htm 

 

柳川に「(山門郡)蒲船津」があった。 (三橋町・蒲船津城)

蒲がつくのは「蒲池」姓などとも通じる。蒲がめっちゃ生えていたのか?


柳川にはほかにも「本船津」「新船津」などの地名がある。


http://www2.harimaya.com/sengoku/html/asou_k.html

 

豊前麻生氏の重臣に「船津氏忠」がいる。(船津参河守氏忠)

 

また、大牟田市南船津町がある。


 

 <佐賀県の船津>

https://www.saga-otakara.jp/search/detail.html?cultureId=1109

 

 https://www.tsunasaga.jp/nishikawasoe/2015/03/post-73.html

「与賀船津」 と 「鹿子船津」 「川副町西船津」といった地名がある。




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 船津とは、素直に「舟が着岸する港」という意味なので、筑後川や有明海沿いには、自然発生してまったくおかしくない苗字である。


 福岡県内の分布は


〇 久留米市安武 15軒程度

〇 遠賀郡水巻 10軒程度

〇 宗像市武丸 10軒程度

〇 宗像郡福間 10軒程度

〇 田川郡赤池 10軒程度

〇 三潴郡楢津 5軒程度

〇 鞍手郡室木 5軒程度

〇 宗像郡津屋崎 5軒程度


という感じになっている。おおむね、宗像方面/筑後久留米方面/筑前遠賀方面と分けられるだろうか。

 

 

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 氏族としてはっきりしているのは「船津氏忠」なので、まずはこの人物をおいかけてみよう。

 

 

 <中間市史>

 

船津氏忠は麻生氏の家臣で、麻生隆実諸臣恩賞の項に「一、折尾郷内百町、舟津三郎に賜。浜田の城に置れける。後三河守氏忠と改。」「麻生隆守記」とあり、麻生家の臣として仕えた”

 

船津氏忠が天正一五年(一五八七)底井野郷宮内分一町を鹿寿丸に預けた文書”

 

 

 <遠賀郡誌>

 

”船津地蔵堂 大字二夕・字宮の下にあり船津三河守氏忠の霊を祀るといふ。”

 

 

福岡県史: 近世史料編. 福岡藩初期>


 ”船津家は、同家家記によれば、麻生上総助元重の家老職であった船津参河守氏忠に始まる。天正十五年に麻生氏が遠賀の地より筑後の地に退転の後は浪人となり、御牧郡垣生村に居住していた。黒田氏入部後長男は藩士に召抱えられたが、次男は同郡二村に移住”

 

 ・・・おおむねこのあたりまでくれば「遠賀郡」の船津氏が、麻生家臣だった一族とわかる。

 

ただ、麻生氏が筑後に移動していることが気になる。筑後へやってきた船津氏もいるのか?

 

 

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 宗像方面については

 

鎌倉幕府裁許状集>

 船津大郞家重与宗像六郎氏業法師”
 
 
 
<鎮西御家人の研究>
 
宗像氏の所領買得について船津次郎家重が相伝の由緒を主張し、氏業・氏郷は非御家人であると主張している”
 
 
とあり、鎌倉時代から宗像に関係して「船津氏」がいたことがわかる。
 
 
この船津氏は、実は長崎が本拠で、
 
 
<宗像大社文書>
 
長崎県北高来郡飯盛町の船津を本拠にしていたのであろう。”
 
 
と考えられているようだ。