2025年3月17日月曜日

<131> 古賀伊豆関連の補足・追加 〜古賀伊豆の”それ以前”?〜

 

 「大塚隠岐」関連の調査中ですが、いったん「古賀伊豆」ネタを挟みます。

 天正時代に、筑後三潴郡の八丁牟田に来た「古賀伊豆」と絵下古賀に来た「隠岐」ですが、そもそも、どちらも「龍造寺家臣」とは寛延記に書かれているものの、実はふたりとも龍造寺軍団における立ち位置がよくわかっていません。


 「隠岐」については、神代家臣の「大塚隠岐」ではないか?と推定していますので、彼自身は「神代長良」がもともとの主君で、「龍造寺隆信」配下になり、最終的には「鍋島直茂」の配下になったのかどうなのか?というあたりを調べている真っ最中ですね。


 古賀伊豆(守)については、その後「筑後国の大庄屋」になったことがわかっており、その後も古賀氏とその子孫についての記録はちらちらと散見できるのですが、実は「古賀伊豆の”それ以前”」がよくわからないのです。


 そこで、今回は、そのあたりがチラリと推測できそうな記述が見つかりましたので、メモ書きしておきます。



 ネタ元は「筑後国史」です。ある意味有名な「大庄屋のはじまり」の部分ですが、見落としがありました。


” 天正15年 小早川は筑前15郡と肥前のうち2郡、筑後のうち生葉・竹野2郡を賜う。

 隆景の代官、入江輿三兵衛と木原善右衛門が下向し、鍋島より原田大蔵を差し副えられ、3人同伴にて吉井に来たり、石井和泉(いまの大庄屋石井氏の祖)、古賀伊豆(数代大庄屋役たり、今下見役、古賀氏の祖)、田代興善(いま大庄屋田代氏の祖)、この三家に止宿し、この3人に大庄屋役を命ず”


となっています。


 小早川隆景により、筑後の大庄屋3人が命じられた、という話はこれまでに何度もしていますが、


■ 鍋島から「原田大蔵」という案内役が一緒に来ていた


という点は、完全に見落としですね。


 そうすると、現地案内役が鍋島から派遣されているので、大庄屋に任命された3人も、なんらかの形で鍋島の影響下にあったと考えてよいと思います。


2025年3月12日水曜日

<130> ”大隠岐”の謎に挑む 〜神代家伝記より〜 その2

 

 前回に引き続き、「神代家伝記」に登場する「大隠岐=大塚隠岐?=大塚新兵衛」関連の謎を、少しずつ解いてゆきます。


■ まず、最初に「杠清右衛門」から調査して杠家に残っていた資料から「大塚新兵衛」という人名を探り当てたところまででした。

 杠氏というのは、

https://www.hb.pei.jp/shiro/hizen/yuzurihashi-yakata/


室町時代に淡路からやってきた肥前・山内の地場豪族になった武家で、その後神代氏の重臣となった一族のようです。



■ 次に「江原平右衛門」の素性です。神代家伝記では、江原氏は武蔵から来た氏族で平姓、もともとは肥前千葉氏の家臣で、のち神代勝利に仕えるようになった一族のようです。

 ところが、子孫の江口氏には別の系図があり、そちらでは菅原姓となっています。

 江原丹後守和重 → 石見守重澄 → 重正(平右衛門) → と続くとのこと

【小城の歴史・第83号・令和3年】



■ 「神代太郎左衛門」は系図によると

 神代勝利 → 神代源内利光 → 神代太郎左衛門 → となり、神代一族です。おなじ名跡が、のちに小城藩士としても続くようです。



■ 「中野彦右衛門」の中野氏は肥前の御家人のようで、

”北肥戦誌は後藤三郎氏明の伯父塚崎十郎定明の子五郎頼明を中野五郎頼明と記し,頼明の代頃より中野姓を始めて”(「竹崎季長と霜月騒動」1996佐藤)

 元寇の頃から中野氏を名乗っているようです。


■ 「福嶋五郎右衛門」の福島氏はもともと八女郡の氏族で、神代勝利の別腹の兄(周防守利元)の母の父にあたる人物が「福島兵部太夫」であり、その系統と思われます。


■「神代源右衛門」も神代姓なので、神代一族ですが、承応3年の神代常宣家臣起請文に名前があるので、ふつうに神代一族と考えてよいと思います。



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今回はあっさりとここまで。実はちょっと別件が見つかったので、次回そちらをまとめます。

2025年3月4日火曜日

<129> ”大隠岐”の謎に挑む 〜神代家伝記より〜 その1

 

 これまでのおさらいです。私の先祖は、三潴郡絵下古賀村の「大塚」氏なのですが、一体全体この「大塚」一族は何者なのか?というところから物語は始まりました。


 そこで、この長ーいブログに書いていったとおり、あっちこっちを足掛け10年以上も調べ回ってある程度のことがわかってきたのですが、


■ 戦国時代の天正年間に

■ 八丁牟田には古賀伊豆(守)という武将がやってきて

■ 絵下古賀には古賀伊豆の部下である隠岐という武将がやってきた


というところまでが、江戸時代に書かれた寛延記(庄屋書上)によって判明したということになります。


 さて、この古賀伊豆と隠岐ですが、いずれも「龍造寺」の家臣とあるので、佐賀勢が筑後川を渡って三潴に駐屯していたようにも思えます。ところが、天下統一されてしまい、最終的には佐賀勢は川の向こうに引き上げてしまいますので、取り残されたような感じにもなっています。


 その後、古賀伊豆は小早川秀秋によって引き立てられ、筑後の大庄屋の3人のうちの一人となっているようです。これで彼はバッチリ帰農したわけですね。


 ところで、もう一人の「隠岐」ですが、絵下古賀の名字分布と、その軒数などから勘案して、この人物が私の先祖の可能性が高い「大塚隠岐(守)」ではないか?と推察してきました。


 大塚隠岐(守)は、神代長良の家臣で、戦で土生島城から逃れる時に自害しようとした長良を生かして脱出させた武将の一人として「北肥戦誌」や「歴代鎮西要略」などにも登場する武将です。


https://www.hb.pei.jp/shiro/hizen/habushima-jyo/

(土生島城は、隣の千布城の支城だったと思われる。千布城は、父の神代勝利の城)


 この段階で「隠岐」と「大塚隠岐」を結びつけてよいものか?という疑問が生じると思いますが、「隠岐」の年代と「大塚隠岐」の年齢・年代は矛盾がなく、なおかつどこの戦記を見ても「大塚隠岐が討ち死にした」という記述がないため、とりあえずは「同一人物と仮定しても、矛盾なく破綻はしない」ということになります。


 さて、ここからが最終段階。


 もともと、大塚隠岐(守)は、それほど功績がある武将ではないので、北肥戦誌や歴代鎮西要略にも、「さらっと」しか出てこないのですが、実は「神代家伝記」に、どうやら「大塚隠岐」のその後を描いたらしい記述があるのです。つまり、大塚隠岐は直茂時代まで生きているのです。

(神代勢は、その後、龍造寺家臣となり、鍋島家臣として引き継がれました)


 これがまた、「絵下古賀村に居着いてしまった隠岐は、大塚隠岐なのではないか?」という話と矛盾しないのですね。


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 では、いよいよその「神代家伝記」の内容へと踏み込んでゆきましょう。すこし注意が必要なのは、「神代家伝記」では、その前半部分で長良の部下を「犬塚隠岐守」と誤記の状態で書いており、非常にややこしくなっています。


 ただ、今回問題となる鍋島藩成立過程時期での記録は、正しく「大隠岐」と書いているので、そこは大丈夫と思われます。




 引用したのは「神代家伝記」のうち「下巻」の「九 犬法師丸殿御養子ノ事」のうち、最後尾あたりです。

 この章、非常にわかりにくく、犬法師丸の養子縁組に関して覚書というかメモみたいなことがいろいろ書き連ねてあるので、前後の文脈が飛び飛びになっています。


 犬法師丸とは、のちの神代家良であり、実は鍋島直茂の甥(=小河信俊の子)。なので、この時点で、神代家は鍋島の家臣としてガッチリ捉えられてしまうわけですね。


 そこで、肝心の文書はその折に、鍋島直茂が、7人の武将に対して出した手紙、ということになります。(5月27日付)


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 また、2枚めの真ん中以降は、「島田鶴栖」の名跡についてどのように処理するかの話が書かれているのですが、この島田鶴栖も、大塚隠岐が土生島城から神代長良を脱出させた時のメンバーで、おなじように北肥戦誌などに登場する武将です。


☆注☆

”島田鶴栖に娶らせていて、鶴栖の女子米女は実は長良の女子であった。長良は鶴栖の跡式を米女に中継相続させた上で三瀬百丸に入婿を命じたのであった。”(社会経済史学 第38)


(島田の名字を続けさせることが重要なので、長良が妊娠させていた女性を島田に娶らせ、その子<実は長良の娘>と三瀬百丸を結婚させて島田家を存続させた)


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 では肝心の鍋島直正の手紙に戻りましょう。

 手紙を出した相手は

■ 杠清右

■ 江原平右

■ 神太郎左

■ 大隠岐

■ 中野彦右

■ 福五郎右

■ 神源右


となっています。この書き方は「キムタク」みたいな略称になっているので、それぞれ、本来はもうちょっと長い名前ということになります。


 これらの人名を佐賀県立図書館の人名データベースと照合すると、


■ 杠清右衛門尉元滿

■ 江原平右衛門(尉)

■ 神代太郎左衛門(尉)

■ 大塚隠岐(守)か?

■ 中野彦右衛門(尉)

■ 福井五郎右衛門か?

■ 神代源右衞門(尉)


ではないか?と思われます。このうち、大隠岐と福五郎は推定です。(福地五郎〜という人名もあるため)


 さて、ここからです。


 この総勢7名、なにか事情があったとは推測できるのですが、その筆頭になっている「杠清右衛門尉」という人名で調べてみると意外なことが判明しました。


 次の資料は「佐賀県史料集成 古文書編 第17巻 (杠家文書)」からの引用ですが、ここではほぼ同じ人名で次のような記述になっているのです。



■ 杠清右衛門尉

■ 江原平右衛門尉

■ 神代太郎左衛門尉

■ 大塚新兵衛尉

■ 中野彦右衛門尉

■ 福嶋五郎右衛門尉

■ 神代源右衞門尉


 この文書によって「福嶋五郎右衛門」が確定し、なおかつ「大隠岐」が「大塚」であることが確定しました。さらに大塚隠岐がおそらく「大塚新兵衛」であることも判明したわけです。

 また、この文書は5月27日の直茂からの手紙の返事を、6月23日に書いたものの「案(控え?)」として杠家に残っていたものだと考えられます。

 さらにこの大塚新兵衛は、佐賀県立図書館の検索では「神代家文書目録」にしか登場しないため、確率的には「大塚隠岐=大塚新兵衛」で問題ないと推定します。



(つづく)





2024年4月2日火曜日

<128> 古賀伊豆関連の補足 〜新史料発見!〜

  

 八丁牟田村の「古賀伊豆」と、絵下古賀村の「大塚隠岐」は基本セットでみてゆくべきものなのですが、古賀伊豆のその後について新しい史料が見つかったので紹介しておきます。


 なかなか新しい資料や情報というのは、年にひとつかふたつくらい出てくればいいほうで、そのためにルーツ探しの解像度というのは、細かいところを突けばつくほど難しくなるものなのですが、新データがでてきてウキウキです(笑)


 その史料というのは、「上毛及上毛人」(上毛郷土史研究会)の昭和4年の記事でした。



 まずは大石久敬という群馬県の高崎藩士だった人物から、話は始まります。


https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E7%9F%B3%E4%B9%85%E6%95%AC-38995


 この人は、高崎藩士なのですが、もともとは久留米出身で、「古賀貞房」の子から、城島の大庄屋大石家に養子に入ります。

 その後、いろいろあって流浪し、なんと高崎藩で召し抱えられた、という人物。


 この久敬の略歴を追ってゆくと、なんとそこに「古賀伊豆」が登場するというわけです!


■ 大石久敬は、もと古賀氏であった。

■ 古賀氏は、菅原道真の子孫で、筑前古賀村を拠点として「古賀」を名乗った。

■ 中世に「古賀伊豆守」が出て、彼は筑後国八丁牟田に移り、国士となった。

■ 龍造寺隆信に属し、その後は鍋島氏に仕えた。

■ 伊豆守の養子は宗乗。

■ その後、帰農した。


 という流れ。


 大石氏の話も、それはそれで面白いのですが、それはまた別のお話として、引用しておきましたので、お暇があればお読みください。


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 以前の記事


<125> 筑後大庄屋の正体を探せ3 ~古賀伊豆を追いかけて~

https://samurai-otsuka.blogspot.com/2022/10/blog-post_13.html


あたりと比較しながら読んでゆくと、ふんわりと状況が見えてくるのですが、


□ 筑前古賀村出身/三潴郡古賀村出身 と話にすこし齟齬がある。 

□ けれど、結局龍造寺隆信に従った。のち鍋島にもついた。


というあたりは、概ね正しいのではないでしょうか?ところがさらに言えば


□ 秀吉勢が押し寄せてきたあとは、小早川に従った


というオチだと思います。


 特に龍造寺隆信亡き後からのバタバタは、とても大塚隠岐の動きと似ている感じがしますね。


 逆に、すこし謎なのは


□ 古賀氏の祖を菅原氏としている点


です。筑前国の古賀村はいくつかあるのですが、(上座郡古賀 糟屋郡古賀 など)たとえば上座郡の大庄屋古賀氏は少弐系だったり、

http://hiramatsu-asakura.jp/bi-liang-song-yomoyamahua/gu-he-da-zhuang-wu/

するので、この話はどこが出処なのかな〜、と思ったりもします。


 しかしまあ、結論としては、


「なんやかんやで地場にいた(筑前から筑後にいた)古賀氏から伊豆守が出て八丁牟田を拠点としたことは間違いなさそうで、なおかつ彼は龍造寺に従った」


という点については、確実っぽいですね。


 前後の文脈は難しくて、龍造寺に送り込まれて八丁牟田に来たのか、八丁牟田にいた者が龍造寺の軍門に下ったのかは微妙です。

 逆に考えると「大塚隠岐」はどうもある一定の時期以前は絵下古賀にはいなさそうなので、「送り込まれて絵下古賀に来た」と考えるのが自然なのですが、そうすると寛延記にあるように、


「大塚隠岐は古賀伊豆の家来?」


というニュアンスも、なんとも言えないなあ、と思います。同時期にやってきて、格上が古賀伊豆だった、ということは、ここまでは確かだろうとは思います。


 直接の主従関係なのか、それとも「格上・格下」の議論なのか。まだまだ探っていければ嬉しいですね。


 とりあえずは、ここまで!


2023年2月9日木曜日

<127> 新シリーズ「船津氏」のルーツを探る

  

 当家の「大塚氏」についてのルーツ調べが一段落したところで、今度は祖母方の「船津」姓について調べてゆきたい。

 

 「船津」という苗字は福岡県が最大分布で、

 

■ 福岡県に約500軒

■ 佐賀県に約200軒

 

のほか、熊本や長崎にもそれぞれ200軒ずつ程度の広がりがある。

 

 その他は関東地方などに飛ぶので、こちらは語源が異なると考えてよいだろう。

 

 おそらくだが、福岡県内でもいくつかの語源があり、また佐賀とは別と思われる。

 

 

 <福岡県の船津>

http://shofuku.nobushi.jp/imakogatizu.htm 

 

柳川に「(山門郡)蒲船津」があった。 (三橋町・蒲船津城)

蒲がつくのは「蒲池」姓などとも通じる。蒲がめっちゃ生えていたのか?


柳川にはほかにも「本船津」「新船津」などの地名がある。


http://www2.harimaya.com/sengoku/html/asou_k.html

 

豊前麻生氏の重臣に「船津氏忠」がいる。(船津参河守氏忠)

 

また、大牟田市南船津町がある。


 

 <佐賀県の船津>

https://www.saga-otakara.jp/search/detail.html?cultureId=1109

 

 https://www.tsunasaga.jp/nishikawasoe/2015/03/post-73.html

「与賀船津」 と 「鹿子船津」 「川副町西船津」といった地名がある。




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 船津とは、素直に「舟が着岸する港」という意味なので、筑後川や有明海沿いには、自然発生してまったくおかしくない苗字である。


 福岡県内の分布は


〇 久留米市安武 15軒程度

〇 遠賀郡水巻 10軒程度

〇 宗像市武丸 10軒程度

〇 宗像郡福間 10軒程度

〇 田川郡赤池 10軒程度

〇 三潴郡楢津 5軒程度

〇 鞍手郡室木 5軒程度

〇 宗像郡津屋崎 5軒程度


という感じになっている。おおむね、宗像方面/筑後久留米方面/筑前遠賀方面と分けられるだろうか。

 

 

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 氏族としてはっきりしているのは「船津氏忠」なので、まずはこの人物をおいかけてみよう。

 

 

 <中間市史>

 

船津氏忠は麻生氏の家臣で、麻生隆実諸臣恩賞の項に「一、折尾郷内百町、舟津三郎に賜。浜田の城に置れける。後三河守氏忠と改。」「麻生隆守記」とあり、麻生家の臣として仕えた”

 

船津氏忠が天正一五年(一五八七)底井野郷宮内分一町を鹿寿丸に預けた文書”

 

 

 <遠賀郡誌>

 

”船津地蔵堂 大字二夕・字宮の下にあり船津三河守氏忠の霊を祀るといふ。”

 

 

福岡県史: 近世史料編. 福岡藩初期>


 ”船津家は、同家家記によれば、麻生上総助元重の家老職であった船津参河守氏忠に始まる。天正十五年に麻生氏が遠賀の地より筑後の地に退転の後は浪人となり、御牧郡垣生村に居住していた。黒田氏入部後長男は藩士に召抱えられたが、次男は同郡二村に移住”

 

 ・・・おおむねこのあたりまでくれば「遠賀郡」の船津氏が、麻生家臣だった一族とわかる。

 

ただ、麻生氏が筑後に移動していることが気になる。筑後へやってきた船津氏もいるのか?

 

 

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 宗像方面については

 

鎌倉幕府裁許状集>

 船津大郞家重与宗像六郎氏業法師”
 
 
 
<鎮西御家人の研究>
 
宗像氏の所領買得について船津次郎家重が相伝の由緒を主張し、氏業・氏郷は非御家人であると主張している”
 
 
とあり、鎌倉時代から宗像に関係して「船津氏」がいたことがわかる。
 
 
この船津氏は、実は長崎が本拠で、
 
 
<宗像大社文書>
 
長崎県北高来郡飯盛町の船津を本拠にしていたのであろう。”
 
 
と考えられているようだ。
 
 
  

2022年10月15日土曜日

<126> 古賀伊豆関連の補足 (稿本八女郡史より 福岡県史資料より メモ)

 

古賀伊豆に関してのメモ・補足です。


 

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P46

佐野胖平

大田黒孫七の第2子

同族三潴郡八町牟田村 処士 佐野興右衛門の貫籍たり

大田黒氏も、佐野氏も、もとは古賀氏

貫籍を偽った。

(稿本八女郡史)

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 八丁牟田の佐野氏あるいは大田黒氏も、もとは「古賀氏」であるという話があります。

 このエリアに一定数の古賀氏がいるということは、古賀伊豆の子孫の可能性があると考えます。

 

 

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P68

八丁牟田 大庄屋 古賀利右衛門


(福岡県史資料)



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 そののちの八丁牟田の大庄屋は古賀氏です。



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<補足>

 

日本医史学雑誌 第49巻より

 

福岡県での調査により、久留米地方で、太田黒家が存在したということが明らかになった。古賀幸雄が昭和五〇年に発表した「久留米藩旧家由緒」によれば、太田黒家は筑後国下妻郡中折地村に在った。現在の筑後市になる。四代目から姓を溝上から太田黒へ改め”

 

 

 






2022年10月13日木曜日

<125> 筑後大庄屋の正体を探せ3 ~古賀伊豆を追いかけて~

 

 さてさて、筑後大庄屋のはじまりとされる3人の正体を追い続けているこのコーナー、いよいよ3回目です。

 前回には、かなり大きなことが判明したので、まずはそのおさらいから。

 

 筑後大庄屋の始まりは、小早川隆景が秀吉によって筑後に送り込まれた時に

 

「石井和泉・古賀伊豆・田代興膳」

 

の3人が、大庄屋に任じられたということになっていますが、このうち「田代興膳」については、資料によっては「興膳善右衛門」とされている場合があり、まずそれが誤りであるらしいことがわかりました。

 

 さらに「田代」興膳という苗字についても、現代側から遡った時に、浮羽郡吉井の大庄屋がのちに「田代氏」であったことからの誤解であり、本来は「鳥越興膳」なのではないか?ということも判明したわけです。

 

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 では、残りの二人です。

 

 まず「石井和泉」という人物。これは当初、私も肥前系の人物なのではないかと思っていました。肥前には

 

石井和泉守忠清

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E4%BA%95%E5%BF%A0%E6%B8%85 


という、そこそこ有名な武将がおり、その関係者の可能性があったわけですね。

 この一族、肥前石井氏で藤原氏とも千葉氏の出身とも称していますが、龍造寺氏や鍋島氏の家臣として活躍するので、有名です。

 

 もともとは下総の氏族で、千葉氏にくっついて肥前入りしたらしい、ということは事実のようです。

 

 ところが、筑後大庄屋になった石井和泉は、当然ながら「和泉守忠清」とは別人らしいのです。

 

  前回出てきたのは、「日田郡石井村」の石井という地侍が石井和泉の正体である、ということでした。

 

 日田には「石井」という地域があり、これがまたかなり古くから発展したエリアのようで「石井大明神」なる神社があったりするくらい。

 「和名抄」にある”日田郡石井郷”と考えられています。

 

 なるほど、日田郡石井の地侍が帰農して大庄屋となったというのは頷けます。

 

 

 

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 では、いよいよ問題の「古賀伊豆」です。

 

 そもそも「古賀伊豆」の何がどう問題かというと、「筑後国三潴郡八丁牟田」村にやってきた龍造寺氏家臣の武将が「古賀伊豆」であると三潴郡の記録にあり、それが大庄屋となった「古賀伊豆」と同一人物なのかどうか、ということでしたね。


 もちろん、三潴郡の「古賀伊豆」はその名前しかわかりません。あるいは「龍造寺家臣」であったことだけはわかりますが、その出自は不明です。


 一方、大庄屋となった「古賀伊豆」は福岡県史資料: 第8輯」によると

 

「三潴郡古賀村出身の古賀伊豆守・高一揆衆」

 

とあり、 ある程度、出自を推理できそうです。


 ポイントは2つあります。



<ポイント1> 三潴郡古賀村出身

 

 まず、古賀伊豆は「三潴郡出身である」という点が興味深いです。最終的に筑後大庄屋となった古賀伊豆は

 

”天正年間に、生葉郡の大庄屋”

 

となっているので、実はエリアがちょっとズレているのです。もし、二人が同一人物であれば、「古賀伊豆は、いったん八丁牟田に赴任してそこから浮羽郡(生葉郡)へ移動した」ことになるでしょう。

 

 けれども、エリアが違うとは言え、現在の八女市星野・うきは市ですから、三潴とは隣接地帯で、江戸時代はどちらも久留米藩であり、のちに「三潴県」になっているエリアです。

 

 ですから、古賀伊豆が、「確固たる領地」を八丁牟田に持っていたわけではなく、短期の駐留であったとしたら、八丁牟田から生葉へわずかに移動していても、不思議ではないという絶妙な距離感だと思われます。

 

 なにより、古賀伊豆は「三潴郡出身」とあるので、だとすれば佐賀勢にいたときも、「佐賀本軍」所属ではなく、三潴の地侍が龍造寺に従っていただけ、ということもありえます。

 その頃ちょうど柳川までは、龍造寺隆信の息がかかっていたため、十分その可能性があるということです。

 

 

<ポイント2> 高一揆衆とは

 

  そして2つめのポイントは、古賀伊豆が「高一揆衆」であるとされている点です。高一揆衆とは簡単に言えば「大友氏の家臣」を意味します。


 まず、足利時代以降「筑後十五城」「高一揆衆(二十四頭)」という布陣で、大友氏は筑後や肥前を管理しました。

 

筑後十五城 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%91%E5%BE%8C%E5%8D%81%E4%BA%94%E5%9F%8E 

 

 蒲池・星野・黒木など、有名武家が並びます。

 

一方、高一揆衆は

「江島、上妻、三原、安武、町野、小河、菅、麦生、酒見、津村、酒井田、坂田、甘木、辺春、谷川、行徳、古賀、高三潴、林田、木室、荒木、水田、隅、稲員、諸富」

とされ、古賀氏がいます。

 

 彼らは大友直参の小豪族でした。苗字を見ると今も筑後の地名として続いている名だとわかります。

 

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 つまり、流れを整理すると、以下のようになるでしょう。

 

◆ 室町末期から戦国時代前期にかけて、九州北部で力を持っていたのは、「少弐」「大友」などの諸氏。

◆ 大友氏は筑後十五城と高一揆衆をもって筑後を管理

◆ 少弐氏は、じわじわと筑前を追い出されて肥前へ移動

◆ 少弐門下から龍造寺や鍋島が台頭。肥前はこの2氏が強くなってゆく。

◆ 龍造寺は肥前から筑後へ侵入、大友氏とガチバトル。大友弱体に乗じて柳川あたりまで支配下に。

◆ 龍造寺隆信・南から北上してきた島津に敗れて死去

◆ 次の瞬間、秀吉によってすべてにストップがかかる。


という感じです。


 ということは、蒲池氏もしかりですが、「龍造寺隆信」がめちゃんこイキッてしまったので、やむなく佐賀勢に従っていますが、筑後の連中はもともとみな「大友派閥」ということです。

 結局、龍造寺隆信は、蒲池鎮漣を謀殺してしまい、一時は龍造寺についていた筑後の武将たちの反感をかって離反をまねくわけで、ちょうど古賀伊豆や大塚隠岐はその真っ只中で身の振り方を考えねばならなかった、ということなのでしょう。

 ましてや、戦後処理もままならぬ間に、今度は中央から秀吉勢がやってきて、すべての動きをリセットさせられてしまうわけで、まさに天正年間という短い間に

 

「え?明日からワシどうしたらええねん!」

 

ということが各武将に起きていたと思われます。

 

 そう考えると、古賀伊豆は同一人物である、と考えてもあながち間違いではないかもしれません。

 

■ まず、三潴郡の武将であった古賀氏は、大友の高一揆衆であった。

■ 古賀伊豆守の頃、大友は弱体化し、龍造寺の筑後侵攻によって多くの筑後衆が佐賀勢に従った。

■ 古賀伊豆は、そのため「龍造寺家臣」ということになるが、地元に近い八丁牟田に駐屯していた。

■ あれよあれよという間に隆信が死に、秀吉軍がやってきて天下統一されてしまった。

■ 古賀伊豆は、赴任してきた小早川隆景に従い、直属の家臣ではない地侍なので庄屋に任命された。


というのが真実に近そうです。

 

 古賀伊豆から見れば、その瞬間瞬間に「誰につくか、誰に従うか」の判断を問われていた、ということなのでしょう。

 

 

  さて、問題の大塚隠岐です。大塚隠岐もまた、佐賀勢ではありながらその経緯においては龍造寺の元からの家臣ではありません。実際には神代長良の家臣ですから、つい先日まで龍造寺と争っていた側の人間であり、古賀伊豆と経歴が似ています。

 

 天正年間のある瞬間においては、大塚隠岐は古賀伊豆のおそらく与力のような形で八丁牟田へ赴任したわけですが、彼もまた佐賀を出たまま、放り出されてしまったことになります。

 

 そもそも、古賀伊豆と大塚隠岐の間に従来からの主従関係があったか?と言われれば違うのではないか?と思います。

 龍造寺の命令のもとでは、「おまえらは八丁牟田と会下古賀あたりを管理しろ」ということになって赴任していたけれど、上司上官はあくまでも隆信であって、二人は上下関係にあったわけではないかもしれません。

 

 そのため、隆信が死んだ後は、二人ともドライで、自分の身の振り方を考えます。


 古賀伊豆は小早川隆景のところへいち早く駆けつけ、雇ってもらおうとします。


 大塚隠岐は佐賀へは戻らず、隆信の後を継いだ鍋島直茂の「帰って来い」という命令を聞かず、既読スルーしています。

(もともと、隆信に従うのも微妙なのだから、当初正統な継承者ではなかった直茂に対しては、さらに言うことを聞くつもりはなかったのかもしれません)

 

※補足ですが、推測ながら古賀伊豆も大塚隠岐も、いわゆる先祖伝来の「本領」のようなものを持っていなかったのではないか?と考えます。

 古賀伊豆が古賀村の当主であれば、八丁牟田にいたり、生葉郡へ行ったりすることがすこし不可思議です。

 大塚隠岐も、本来は佐賀の人間ですから、「ある瞬間」は筑後にいたかもしれないけれど、その領地は短期的な位置づけだった可能性があるかもしれません。

 

 

 どうも、歴史をずーっと読み解いてゆくと、そういうことがあったのではないか?と思うわけです。

 

 こういう人間模様が、先祖の生きた証だとすれば、かなり面白いのではないでしょうか。