2025年6月13日金曜日

<132> 古賀伊豆の重要情報 〜やはり、龍造寺が送り込んだか?〜

 

 このブログを見てくださっている方からメールを貰って、重要な手がかりが見つかったようなので、まずは書き残しておきます。


 もはや、当ブログでは有名人の一人である「古賀伊豆」ですが、最終的には吉井の大庄屋になってゆく人物です。


 お知らせくださった方のお話では、「星野村史」に、その後の古賀伊豆の様子が描かれているということなのですが、「星野村史」はマイナーで、国会図書館でも「館内閲覧のみ」になっていて、さらに古書店でも一部しか流通していないようなので、


 まーったくの手つかず


だったのは残念無念! お知らせくださった方に感謝感激です。


 というわけで、「原本未確認」ながら、データ分析をしておきましょう。


■ うきは市吉井「円応寺」に古賀伊豆のお墓がある。

■ お墓は寛政になってから、一族の子孫が建立したものらしい。


 ありがたいことに現地の墓碑に書かれている内容をお知らせくださったので、それも転載しておきます。


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(正面)
 光徳院繁叟知栄居士
 (正面以外)
 光徳院、姓は古賀、名は伊豆。星野中務大輔調胤實十六世の苗裔にして、同苗伯耆守正實の三男也。
 龍造寺隆信に扈従して戦功数有り。隆信率いて西筑を治めて後、居士を三潴郡八丁牟田の館に留めて乱暴より衞ら令む。
 隆信戦死の後、移居して吉井に於ける時、小早川隆景領を合わせて当郡の主也。
 古賀・石井・鳥越の三士を召して大保正と為し、家譜に許す。故に贅せず。
 此に天正十九年卯二月十二日卒す。今寛政十二庚申、二百十年にして一族三十餘人を得たり。
 再び改めて石碑を建て大生禅刹に就きて追福す、云々。
 誉めて曰く
  温恭清廉 廣古富今
  赫々光徳 山高水深
  孝孫某 甲篆謹書


========

(Yさま!ありがとうございます)



 まず、古賀伊豆は「星野中務大輔」の子孫である、という話が出てきており、これは他では見られない記述ですね。(新情報)


 星野氏について詳しい方のページでは


https://mfj.co.jp/hoshinoshi/


 星野中務大輔胤実が、初代で鎌倉時代の人ということになっています。筑後国生葉郡星野を領地として「星野」を名乗っているので、星野村のめちゃくちゃ「地元の人」ということになります。


 星野氏の祖先は、源助能(黒木大蔵大輔)の猶子で、実は徳大寺実定の子であり、嘉禄年間に星野に来て、天正年間まで勢いがあったとも。


星野氏

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%9F%E9%87%8E%E6%B0%8F


 うーむ。正直なことを言えば、感触としては「とっても不可思議な感じ」という印象を抱きます。


 まず、古賀伊豆の先祖は星野氏だとすると、「最初から星野にいた星野氏」であり、なぜか古賀伊豆だけが佐賀方面へ飛んでいってしまい、そこで龍造寺に仕えて、「八丁牟田に赴任」したのに、また「星野(吉井・生葉・うきは方面)」に戻ってきた、という感じになるからです。


 話としては有り得そうですが、では「なんで古賀を名乗るの?」といったあたりが、少しピンとこない感じもあります。


 ただ、史実としては、ほかでも確認できる「八丁牟田の館に赴任させて護衛させた」的な話は、三潴側でもそう認識しているので、ここは合っているでしょう。


 その後に「大庄屋(大保正)」になった点も、問題はなさそうですね。


 もちろん、寛政年間になって「先祖を顕彰する」形でのお墓の碑文なので、なんらかの意図や演出が隠れている感じはしますが、たとえば


■ 姓は古賀、名は伊豆


という認識しかしていないのであれば、「それしか伝わっていない」ということを意味します。


 このあたりは、源氏もしくは徳大寺家の「藤原氏」を本姓としたいところですし、「名前が伊豆」というのも、不可思議です。


 たとえば大塚隠岐は、官位風の通称としては「隠岐・隠岐守」ですが、「新兵衛」という名が残っているらしい記録もあるので、直接の子孫が書き残したのであれば、「通称の名」「いみな」がどちらも伝わっていないというのは、残念な気もするわけです。


 なんとなく、雰囲気としては、「この地元の領主たる経緯があるのだ」ということを主張したいがために「星野」と繋げたような感じもあるような、ないような・・・(苦笑)


========


 そこで「伯耆守正実の3男」という記述にも注目してみましょう。


福丸城

https://cmeg.jp/w/castles/8751/pins/28685


このあたり、太宰管内志の略記があるのですが、


「星野中務大輔吉實は戦国時代の人で、こ の頃豊後の大友氏と肥前の龍造寺氏と常に争って戦乱が止むことがなかった。吉實自立していずれにも偏せず。龍造寺隆信が黒木に侵入するや、星野氏、黒木氏同盟して猫尾城を守る。大友氏は偽って竹尾外記なるものを猫尾城に入れ、奸計をもって吉實を殺す。この後、黒木氏は龍造寺氏に属す。常陸介親忠跡を嗣ぎ、驍勇を以て 名がある。天文元年大友義鑑の兵が来攻する時、妙見城を守りて天文3年(1535年)9月13日に死す。その子伯耆守正実は福丸城に在ったが大友勢に攻められて周防に逃る。この後、星野氏は大友氏に属し、右衛門太夫重実は、大生寺村立石城の門注所氏を逐ってその跡に住む。重実死する後福丸城に高実がいたが大友氏の命により蒲池氏の鎮泰(母は星野氏の娘です)を養子に入れて星野氏を嗣ぎ白石城に居る、後福丸に移り肥後勝山にて戦死する。右衛門大夫鎮虎は、白石城に居たが龍造寺氏に襲われて豊後に奔り弟鎮胤(吉実)は初め福丸城その後高取(鷹取)城に居たが、やがて島津義久に属し、天正14年(1586年)8月25日筑前高鳥居にて討死、次の弟鎮元(吉兼) も同じく戦死する」


となっています。


 仮に伯耆守正実の子が古賀伊豆だとしましょう。 そういえば源助能は「黒木大蔵大輔」なので、黒木氏も関係者です。


武家家伝 黒木氏

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/t_kuroki.html


 私のおなじニュータウンにおられる心の師匠 播磨屋さん の見立てでは、「河崎・星野・黒木」は調党(本姓=調宿禰)となっていて、さらに謎が深まります。


(碑文にも調胤実と書いているのに?!)


 話を戻します。


 龍造寺が攻めてきて、黒木氏は龍造寺側についた。これはOK。

 そして、伯耆守正実は、大友勢に攻められて周防に逃げた。はいはい。

 その後、星野氏は大友に従った。

 大友の命令で、星野には蒲池の養子の子が入った。

 その後龍造寺に襲われて、島津に助けてもらおうとしたが、星野本家は戦死。


 うーん、では古賀伊豆(つまり、伯耆守正実の子)がどうなったのかは、話を整理してもさっぱりわからんのです(苦笑)


(とにかく、この時期の龍造寺隆信<肥前のくまモン>は、無茶苦茶な動きをするので、読み解くのが大変!)


 播磨屋さんバージョンの時系列も、引用しておきます。


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 天正七年、龍造寺隆信は大友氏の衰退を好機として筑後に進出し、山下城の蒲池鑑広を攻略、さらに伊駒野城の河崎鎮堯を降した。この状況をみた黒木兵庫助*は、龍造寺の陣にいくと降伏した。こうして、筑後の諸将は続々と龍造寺氏に降り、筑後十郡は鍋島飛騨守信昌(信生→直茂)が隆信の代官として支配するところとなった。

 かくして筑後を征圧した龍造寺隆信は肥後北部まで支配下におき、三州二島の太守と呼ばれるまでに勢力を拡大した。一方で、その残忍性があらわれるようになった。天正十年、隆信は柳河城主の蒲池鎮並を謀殺したが、黒木兵庫頭家永はこれに怒って隆信に逆意を示した。猫尾城は龍造寺政家・鍋島信生らに攻められたが、草野家清の仲裁で和睦となり、家永は嫡子四郎丸を人質として龍造寺に送った。その後、家永の弟の蒲家益種が戦死しているのは、兄家永とは別に龍造寺氏に反抗を続けていた結果であろう。


 天正十二年、有馬氏が龍造寺氏の麾下から離れた。これは、さきの蒲池氏の謀殺をみて、つぎは自分との危惧を抱いた結果、島津氏をたのんで龍造寺氏から離反したものであった。隆信はただちに有馬攻めを決して出陣し、島原半島の沖田畷で島津・有馬連合軍と戦った。隆信の率いる兵は五万余騎といい、一方の連合軍は三千余であった。しかし、結果は数に奢った龍造寺軍の無策もあって、連合軍の大勝利となり隆信は戦死を遂げてしまった。


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 この話を見ていると、ちょうど我が「大塚家」の祖であろう「大塚隠岐」がなぜか天正10年前後の極めて「狭い時期」にしか、絵下古賀に来ることができないという話を思い出すのですが、もし、古賀伊豆が星野一族だったとしたら、まーったく同じような話に巻き込まれている感じもします。


 つまり、蒲池鎮漣がらみというか、蒲池家前後というか、そのあたりで「龍造寺から離反したくなる」あるいは「せざるを得なくなる」ような雰囲気がビシバシ感じられるわけですね。



 

 というわけで、あまりにも脳みそが沸騰しそうな展開ですので、いったんこれくらいで終わりにしておきます。


 重要なのは、


「古賀伊豆が八丁牟田に赴任したのは、龍造寺隆信の命令であろうこと」が、まず今回確認されたのと、「天正年間に、まずやってきた」ことにも、蒲池がらみのゴタゴタが裏にありそうだ、ということです。


 これは古賀伊豆・大塚隠岐、両方に共通して言えることですね。


 そして「古賀伊豆は、(なぜか)吉井へ移動」「大塚隠岐は、そのままとどまった」わけです。


 このあたりの経緯も、まだ謎は残ったままです。



(とりあえず、つづく)

2025年5月10日土曜日

戸籍制度は、明治の「マイナンバー」だった

 

 ルーツ調べやご先祖様に関わる一番のデータは「戸籍」となるわけですが、世界的に見ると「家族単位で集団を認定する戸籍」のような制度は、東アジアにしか存在しないと言われています。

 とくに欧米では個人の概念が発達していますから、社会保障番号のようなマイナンバーは存在しますが、「戸籍」というシステムは、もともと存在していないのです。

 わかりやすい考え方で言えば日本の「住民票」のようなものが、海外では個人を識別するベースになっているという感じですね。

 さて、その「戸籍」ですが、皇居の住所である「東京都千代田区千代田1番」を登録する人が多く、千代田区ではその手続きにてんてこ舞いになっている、なんてニュースが話題になったりしました。

 現代の法律では「戸籍を置く場所=本籍」は存在している住所であればどこに登録してもよいので、実際に皇居の住所を本籍地としている人が3000人くらいいるそうです。


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 さて、私の本籍地は、父方の一族がルーツとしている「福岡県」になっています。いわゆる本家(私からみると、今はいとこが住んでいます)の住所を登録していますが、そのおかげで自分たちのルーツがどこにあるのかがわかりやすくなっています。

 しかし、そうした氏族の思い入れがある地域を本籍とし続けることは、もちろんOKなのですが、ぜんぜん縁もゆかりもない地域に設定することもできるわけで、それなら

「なんのために戸籍、本籍地があるの?」

という疑問が生じるのも、自然なことかもしれません。現実的には住民票登録があるのですから、行政的なことはそれで事足りるわけですが、なぜ日本では戸籍が残っているのでしょうか?

 この問題を考えるには、「江戸時代」にどうであったか?というところから遡らなくてはなりません。

 一般常識や日本史の教科書でもご存知の通り、江戸時代は「キリシタン」が禁じられたため、「キリシタンではありませんよ」ということを証明するために、すべての民は「どこかのお寺の檀家として、そのお寺にぶら下がって管理される」ことになっていました。

 これが今も、お墓や法事などでお世話になる「旦那寺と檀家の関係」のスタートです。仏教の宗派に所属しているので、おのずとキリシタンではない、という証明になったわけですね。

 こうして各地の寺は、「宗派の管理」という側面から発展して、江戸幕府における「戸籍の代わり=人員の把握」に用いられるようになりました。

 これらの情報が書いてあるのが「宗門人別帳」ですが、実はこの「宗門人別帳」に書かれていない人たち、というのが現れ始めたのです。

 いろいろな諸事情で縁を切ったり切られたりして、どこかの寺に所属していない人たちは「無宿人」と呼ばれ、こうした人達をはじめ「把握されていない人員」が生じてしまったのが、江戸時代の限界でした。

 さらに江戸などの都市が発展すると、「どこにも所属していない」「どこでも管理されていない」「誰にも把握されていない」人たちが存在することになってしまいます。

 もともとの土地と縁付いてもいないので、他所へ行ってしまうと、本当に「誰」なのか把握できないことになってしまったのですね。

 江戸時代の間は、なんとかそれでも誤魔化しながらやってこれたのですが、
問題は明治になった時です。

 明治政府は富国強兵を打ち出すので、確実に「徴兵」して人員を管理しなくてはいけなくなりました。その際に「徴兵逃れ」が頻発してしまうと、そもそも誰もまじめに兵隊にいかず、逃げてしまいますから、まさに「国民総背番号制度」のように「マイナンバー」が必要になったのです。

 そうして整備されたのが現行の「戸籍」です。個人個人のマイナンバーではなく、「家単位」で整備したので「”戸”の籍」なのですが、考え方は同じで、もれなく人員を書きつけるために整備された、というわけですね。

 日本の戸籍の場合、「もれなく書きつける」ことは大事ですが、その帳簿をどこが管理するかは、実はどこでも良いわけで

■ 国家が一元管理して、どこか東京のデータセンターに全部置く

でもかまいません。

 ところが明治政府はそれをやらず、

■ その一族(とその家の個人)が、その時住んでいた地域の市町村

などに原簿を置かせたわけです。

 そういうわけで、もともとの戸籍は、その一族やその家があった地域で管理されることになりましたが、その後、時代が進んで「転居の自由」などが進んでくると、

■ 原簿が置いてあった場所

だけが残ってしまった、みたいなことになっているのが現状です。

 こうして現在の本籍地は「もともとの原簿の管理されていた場所」くらいの意味しかなくなったのですが、たとえば仮にすべてが東京に置かれていたら、空襲で全部燃えてしまったとか、地震でデータがすべて飛んでしまったとか、そういうことも起こり得ますから、分散して管理されていたのは、それはそれで良かったのかもしれません。

 現在のマイナンバーのデータは、テロなどを防ぐために「どこにデータセンターがあるのか」は公表されていませんが、おそらくは分散してなおかつ何重かの同じデータが複数で管理されているものと思われます。


2025年4月20日日曜日

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2025年3月17日月曜日

<131> 古賀伊豆関連の補足・追加 〜古賀伊豆の”それ以前”?〜

 

 「大塚隠岐」関連の調査中ですが、いったん「古賀伊豆」ネタを挟みます。

 天正時代に、筑後三潴郡の八丁牟田に来た「古賀伊豆」と絵下古賀に来た「隠岐」ですが、そもそも、どちらも「龍造寺家臣」とは寛延記に書かれているものの、実はふたりとも龍造寺軍団における立ち位置がよくわかっていません。


 「隠岐」については、神代家臣の「大塚隠岐」ではないか?と推定していますので、彼自身は「神代長良」がもともとの主君で、「龍造寺隆信」配下になり、最終的には「鍋島直茂」の配下になったのかどうなのか?というあたりを調べている真っ最中ですね。


 古賀伊豆(守)については、その後「筑後国の大庄屋」になったことがわかっており、その後も古賀氏とその子孫についての記録はちらちらと散見できるのですが、実は「古賀伊豆の”それ以前”」がよくわからないのです。


 そこで、今回は、そのあたりがチラリと推測できそうな記述が見つかりましたので、メモ書きしておきます。



 ネタ元は「筑後国史」です。ある意味有名な「大庄屋のはじまり」の部分ですが、見落としがありました。


” 天正15年 小早川は筑前15郡と肥前のうち2郡、筑後のうち生葉・竹野2郡を賜う。

 隆景の代官、入江輿三兵衛と木原善右衛門が下向し、鍋島より原田大蔵を差し副えられ、3人同伴にて吉井に来たり、石井和泉(いまの大庄屋石井氏の祖)、古賀伊豆(数代大庄屋役たり、今下見役、古賀氏の祖)、田代興善(いま大庄屋田代氏の祖)、この三家に止宿し、この3人に大庄屋役を命ず”


となっています。


 小早川隆景により、筑後の大庄屋3人が命じられた、という話はこれまでに何度もしていますが、


■ 鍋島から「原田大蔵」という案内役が一緒に来ていた


という点は、完全に見落としですね。


 そうすると、現地案内役が鍋島から派遣されているので、大庄屋に任命された3人も、なんらかの形で鍋島の影響下にあったと考えてよいと思います。


2025年3月12日水曜日

<130> ”大隠岐”の謎に挑む 〜神代家伝記より〜 その2

 

 前回に引き続き、「神代家伝記」に登場する「大隠岐=大塚隠岐?=大塚新兵衛」関連の謎を、少しずつ解いてゆきます。


■ まず、最初に「杠清右衛門」から調査して杠家に残っていた資料から「大塚新兵衛」という人名を探り当てたところまででした。

 杠氏というのは、

https://www.hb.pei.jp/shiro/hizen/yuzurihashi-yakata/


室町時代に淡路からやってきた肥前・山内の地場豪族になった武家で、その後神代氏の重臣となった一族のようです。



■ 次に「江原平右衛門」の素性です。神代家伝記では、江原氏は武蔵から来た氏族で平姓、もともとは肥前千葉氏の家臣で、のち神代勝利に仕えるようになった一族のようです。

 ところが、子孫の江口氏には別の系図があり、そちらでは菅原姓となっています。

 江原丹後守和重 → 石見守重澄 → 重正(平右衛門) → と続くとのこと

【小城の歴史・第83号・令和3年】



■ 「神代太郎左衛門」は系図によると

 神代勝利 → 神代源内利光 → 神代太郎左衛門 → となり、神代一族です。おなじ名跡が、のちに小城藩士としても続くようです。



■ 「中野彦右衛門」の中野氏は肥前の御家人のようで、

”北肥戦誌は後藤三郎氏明の伯父塚崎十郎定明の子五郎頼明を中野五郎頼明と記し,頼明の代頃より中野姓を始めて”(「竹崎季長と霜月騒動」1996佐藤)

 元寇の頃から中野氏を名乗っているようです。


■ 「福嶋五郎右衛門」の福島氏はもともと八女郡の氏族で、神代勝利の別腹の兄(周防守利元)の母の父にあたる人物が「福島兵部太夫」であり、その系統と思われます。


■「神代源右衛門」も神代姓なので、神代一族ですが、承応3年の神代常宣家臣起請文に名前があるので、ふつうに神代一族と考えてよいと思います。



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今回はあっさりとここまで。実はちょっと別件が見つかったので、次回そちらをまとめます。

2025年3月4日火曜日

<129> ”大隠岐”の謎に挑む 〜神代家伝記より〜 その1

 

 これまでのおさらいです。私の先祖は、三潴郡絵下古賀村の「大塚」氏なのですが、一体全体この「大塚」一族は何者なのか?というところから物語は始まりました。


 そこで、この長ーいブログに書いていったとおり、あっちこっちを足掛け10年以上も調べ回ってある程度のことがわかってきたのですが、


■ 戦国時代の天正年間に

■ 八丁牟田には古賀伊豆(守)という武将がやってきて

■ 絵下古賀には古賀伊豆の部下である隠岐という武将がやってきた


というところまでが、江戸時代に書かれた寛延記(庄屋書上)によって判明したということになります。


 さて、この古賀伊豆と隠岐ですが、いずれも「龍造寺」の家臣とあるので、佐賀勢が筑後川を渡って三潴に駐屯していたようにも思えます。ところが、天下統一されてしまい、最終的には佐賀勢は川の向こうに引き上げてしまいますので、取り残されたような感じにもなっています。


 その後、古賀伊豆は小早川秀秋によって引き立てられ、筑後の大庄屋の3人のうちの一人となっているようです。これで彼はバッチリ帰農したわけですね。


 ところで、もう一人の「隠岐」ですが、絵下古賀の名字分布と、その軒数などから勘案して、この人物が私の先祖の可能性が高い「大塚隠岐(守)」ではないか?と推察してきました。


 大塚隠岐(守)は、神代長良の家臣で、戦で土生島城から逃れる時に自害しようとした長良を生かして脱出させた武将の一人として「北肥戦誌」や「歴代鎮西要略」などにも登場する武将です。


https://www.hb.pei.jp/shiro/hizen/habushima-jyo/

(土生島城は、隣の千布城の支城だったと思われる。千布城は、父の神代勝利の城)


 この段階で「隠岐」と「大塚隠岐」を結びつけてよいものか?という疑問が生じると思いますが、「隠岐」の年代と「大塚隠岐」の年齢・年代は矛盾がなく、なおかつどこの戦記を見ても「大塚隠岐が討ち死にした」という記述がないため、とりあえずは「同一人物と仮定しても、矛盾なく破綻はしない」ということになります。


 さて、ここからが最終段階。


 もともと、大塚隠岐(守)は、それほど功績がある武将ではないので、北肥戦誌や歴代鎮西要略にも、「さらっと」しか出てこないのですが、実は「神代家伝記」に、どうやら「大塚隠岐」のその後を描いたらしい記述があるのです。つまり、大塚隠岐は直茂時代まで生きているのです。

(神代勢は、その後、龍造寺家臣となり、鍋島家臣として引き継がれました)


 これがまた、「絵下古賀村に居着いてしまった隠岐は、大塚隠岐なのではないか?」という話と矛盾しないのですね。


========


 では、いよいよその「神代家伝記」の内容へと踏み込んでゆきましょう。すこし注意が必要なのは、「神代家伝記」では、その前半部分で長良の部下を「犬塚隠岐守」と誤記の状態で書いており、非常にややこしくなっています。


 ただ、今回問題となる鍋島藩成立過程時期での記録は、正しく「大隠岐」と書いているので、そこは大丈夫と思われます。




 引用したのは「神代家伝記」のうち「下巻」の「九 犬法師丸殿御養子ノ事」のうち、最後尾あたりです。

 この章、非常にわかりにくく、犬法師丸の養子縁組に関して覚書というかメモみたいなことがいろいろ書き連ねてあるので、前後の文脈が飛び飛びになっています。


 犬法師丸とは、のちの神代家良であり、実は鍋島直茂の甥(=小河信俊の子)。なので、この時点で、神代家は鍋島の家臣としてガッチリ捉えられてしまうわけですね。


 そこで、肝心の文書はその折に、鍋島直茂が、7人の武将に対して出した手紙、ということになります。(5月27日付)


========

 また、2枚めの真ん中以降は、「島田鶴栖」の名跡についてどのように処理するかの話が書かれているのですが、この島田鶴栖も、大塚隠岐が土生島城から神代長良を脱出させた時のメンバーで、おなじように北肥戦誌などに登場する武将です。


☆注☆

”島田鶴栖に娶らせていて、鶴栖の女子米女は実は長良の女子であった。長良は鶴栖の跡式を米女に中継相続させた上で三瀬百丸に入婿を命じたのであった。”(社会経済史学 第38)


(島田の名字を続けさせることが重要なので、長良が妊娠させていた女性を島田に娶らせ、その子<実は長良の娘>と三瀬百丸を結婚させて島田家を存続させた)


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 では肝心の鍋島直正の手紙に戻りましょう。

 手紙を出した相手は

■ 杠清右

■ 江原平右

■ 神太郎左

■ 大隠岐

■ 中野彦右

■ 福五郎右

■ 神源右


となっています。この書き方は「キムタク」みたいな略称になっているので、それぞれ、本来はもうちょっと長い名前ということになります。


 これらの人名を佐賀県立図書館の人名データベースと照合すると、


■ 杠清右衛門尉元滿

■ 江原平右衛門(尉)

■ 神代太郎左衛門(尉)

■ 大塚隠岐(守)か?

■ 中野彦右衛門(尉)

■ 福井五郎右衛門か?

■ 神代源右衞門(尉)


ではないか?と思われます。このうち、大隠岐と福五郎は推定です。(福地五郎〜という人名もあるため)


 さて、ここからです。


 この総勢7名、なにか事情があったとは推測できるのですが、その筆頭になっている「杠清右衛門尉」という人名で調べてみると意外なことが判明しました。


 次の資料は「佐賀県史料集成 古文書編 第17巻 (杠家文書)」からの引用ですが、ここではほぼ同じ人名で次のような記述になっているのです。



■ 杠清右衛門尉

■ 江原平右衛門尉

■ 神代太郎左衛門尉

■ 大塚新兵衛尉

■ 中野彦右衛門尉

■ 福嶋五郎右衛門尉

■ 神代源右衞門尉


 この文書によって「福嶋五郎右衛門」が確定し、なおかつ「大隠岐」が「大塚」であることが確定しました。さらに大塚隠岐がおそらく「大塚新兵衛」であることも判明したわけです。

 また、この文書は5月27日の直茂からの手紙の返事を、6月23日に書いたものの「案(控え?)」として杠家に残っていたものだと考えられます。

 さらにこの大塚新兵衛は、佐賀県立図書館の検索では「神代家文書目録」にしか登場しないため、確率的には「大塚隠岐=大塚新兵衛」で問題ないと推定します。



(つづく)