2025年3月17日月曜日

<131> 古賀伊豆関連の補足・追加 〜古賀伊豆の”それ以前”?〜

 

 「大塚隠岐」関連の調査中ですが、いったん「古賀伊豆」ネタを挟みます。

 天正時代に、筑後三潴郡の八丁牟田に来た「古賀伊豆」と絵下古賀に来た「隠岐」ですが、そもそも、どちらも「龍造寺家臣」とは寛延記に書かれているものの、実はふたりとも龍造寺軍団における立ち位置がよくわかっていません。


 「隠岐」については、神代家臣の「大塚隠岐」ではないか?と推定していますので、彼自身は「神代長良」がもともとの主君で、「龍造寺隆信」配下になり、最終的には「鍋島直茂」の配下になったのかどうなのか?というあたりを調べている真っ最中ですね。


 古賀伊豆(守)については、その後「筑後国の大庄屋」になったことがわかっており、その後も古賀氏とその子孫についての記録はちらちらと散見できるのですが、実は「古賀伊豆の”それ以前”」がよくわからないのです。


 そこで、今回は、そのあたりがチラリと推測できそうな記述が見つかりましたので、メモ書きしておきます。



 ネタ元は「筑後国史」です。ある意味有名な「大庄屋のはじまり」の部分ですが、見落としがありました。


” 天正15年 小早川は筑前15郡と肥前のうち2郡、筑後のうち生葉・竹野2郡を賜う。

 隆景の代官、入江輿三兵衛と木原善右衛門が下向し、鍋島より原田大蔵を差し副えられ、3人同伴にて吉井に来たり、石井和泉(いまの大庄屋石井氏の祖)、古賀伊豆(数代大庄屋役たり、今下見役、古賀氏の祖)、田代興善(いま大庄屋田代氏の祖)、この三家に止宿し、この3人に大庄屋役を命ず”


となっています。


 小早川隆景により、筑後の大庄屋3人が命じられた、という話はこれまでに何度もしていますが、


■ 鍋島から「原田大蔵」という案内役が一緒に来ていた


という点は、完全に見落としですね。


 そうすると、現地案内役が鍋島から派遣されているので、大庄屋に任命された3人も、なんらかの形で鍋島の影響下にあったと考えてよいと思います。


2025年3月12日水曜日

<130> ”大隠岐”の謎に挑む 〜神代家伝記より〜 その2

 

 前回に引き続き、「神代家伝記」に登場する「大隠岐=大塚隠岐?=大塚新兵衛」関連の謎を、少しずつ解いてゆきます。


■ まず、最初に「杠清右衛門」から調査して杠家に残っていた資料から「大塚新兵衛」という人名を探り当てたところまででした。

 杠氏というのは、

https://www.hb.pei.jp/shiro/hizen/yuzurihashi-yakata/


室町時代に淡路からやってきた肥前・山内の地場豪族になった武家で、その後神代氏の重臣となった一族のようです。



■ 次に「江原平右衛門」の素性です。神代家伝記では、江原氏は武蔵から来た氏族で平姓、もともとは肥前千葉氏の家臣で、のち神代勝利に仕えるようになった一族のようです。

 ところが、子孫の江口氏には別の系図があり、そちらでは菅原姓となっています。

 江原丹後守和重 → 石見守重澄 → 重正(平右衛門) → と続くとのこと

【小城の歴史・第83号・令和3年】



■ 「神代太郎左衛門」は系図によると

 神代勝利 → 神代源内利光 → 神代太郎左衛門 → となり、神代一族です。おなじ名跡が、のちに小城藩士としても続くようです。



■ 「中野彦右衛門」の中野氏は肥前の御家人のようで、

”北肥戦誌は後藤三郎氏明の伯父塚崎十郎定明の子五郎頼明を中野五郎頼明と記し,頼明の代頃より中野姓を始めて”(「竹崎季長と霜月騒動」1996佐藤)

 元寇の頃から中野氏を名乗っているようです。


■ 「福嶋五郎右衛門」の福島氏はもともと八女郡の氏族で、神代勝利の別腹の兄(周防守利元)の母の父にあたる人物が「福島兵部太夫」であり、その系統と思われます。


■「神代源右衛門」も神代姓なので、神代一族ですが、承応3年の神代常宣家臣起請文に名前があるので、ふつうに神代一族と考えてよいと思います。



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今回はあっさりとここまで。実はちょっと別件が見つかったので、次回そちらをまとめます。

2025年3月4日火曜日

<129> ”大隠岐”の謎に挑む 〜神代家伝記より〜 その1

 

 これまでのおさらいです。私の先祖は、三潴郡絵下古賀村の「大塚」氏なのですが、一体全体この「大塚」一族は何者なのか?というところから物語は始まりました。


 そこで、この長ーいブログに書いていったとおり、あっちこっちを足掛け10年以上も調べ回ってある程度のことがわかってきたのですが、


■ 戦国時代の天正年間に

■ 八丁牟田には古賀伊豆(守)という武将がやってきて

■ 絵下古賀には古賀伊豆の部下である隠岐という武将がやってきた


というところまでが、江戸時代に書かれた寛延記(庄屋書上)によって判明したということになります。


 さて、この古賀伊豆と隠岐ですが、いずれも「龍造寺」の家臣とあるので、佐賀勢が筑後川を渡って三潴に駐屯していたようにも思えます。ところが、天下統一されてしまい、最終的には佐賀勢は川の向こうに引き上げてしまいますので、取り残されたような感じにもなっています。


 その後、古賀伊豆は小早川秀秋によって引き立てられ、筑後の大庄屋の3人のうちの一人となっているようです。これで彼はバッチリ帰農したわけですね。


 ところで、もう一人の「隠岐」ですが、絵下古賀の名字分布と、その軒数などから勘案して、この人物が私の先祖の可能性が高い「大塚隠岐(守)」ではないか?と推察してきました。


 大塚隠岐(守)は、神代長良の家臣で、戦で土生島城から逃れる時に自害しようとした長良を生かして脱出させた武将の一人として「北肥戦誌」や「歴代鎮西要略」などにも登場する武将です。


https://www.hb.pei.jp/shiro/hizen/habushima-jyo/

(土生島城は、隣の千布城の支城だったと思われる。千布城は、父の神代勝利の城)


 この段階で「隠岐」と「大塚隠岐」を結びつけてよいものか?という疑問が生じると思いますが、「隠岐」の年代と「大塚隠岐」の年齢・年代は矛盾がなく、なおかつどこの戦記を見ても「大塚隠岐が討ち死にした」という記述がないため、とりあえずは「同一人物と仮定しても、矛盾なく破綻はしない」ということになります。


 さて、ここからが最終段階。


 もともと、大塚隠岐(守)は、それほど功績がある武将ではないので、北肥戦誌や歴代鎮西要略にも、「さらっと」しか出てこないのですが、実は「神代家伝記」に、どうやら「大塚隠岐」のその後を描いたらしい記述があるのです。つまり、大塚隠岐は直茂時代まで生きているのです。

(神代勢は、その後、龍造寺家臣となり、鍋島家臣として引き継がれました)


 これがまた、「絵下古賀村に居着いてしまった隠岐は、大塚隠岐なのではないか?」という話と矛盾しないのですね。


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 では、いよいよその「神代家伝記」の内容へと踏み込んでゆきましょう。すこし注意が必要なのは、「神代家伝記」では、その前半部分で長良の部下を「犬塚隠岐守」と誤記の状態で書いており、非常にややこしくなっています。


 ただ、今回問題となる鍋島藩成立過程時期での記録は、正しく「大隠岐」と書いているので、そこは大丈夫と思われます。




 引用したのは「神代家伝記」のうち「下巻」の「九 犬法師丸殿御養子ノ事」のうち、最後尾あたりです。

 この章、非常にわかりにくく、犬法師丸の養子縁組に関して覚書というかメモみたいなことがいろいろ書き連ねてあるので、前後の文脈が飛び飛びになっています。


 犬法師丸とは、のちの神代家良であり、実は鍋島直茂の甥(=小河信俊の子)。なので、この時点で、神代家は鍋島の家臣としてガッチリ捉えられてしまうわけですね。


 そこで、肝心の文書はその折に、鍋島直茂が、7人の武将に対して出した手紙、ということになります。(5月27日付)


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 また、2枚めの真ん中以降は、「島田鶴栖」の名跡についてどのように処理するかの話が書かれているのですが、この島田鶴栖も、大塚隠岐が土生島城から神代長良を脱出させた時のメンバーで、おなじように北肥戦誌などに登場する武将です。


☆注☆

”島田鶴栖に娶らせていて、鶴栖の女子米女は実は長良の女子であった。長良は鶴栖の跡式を米女に中継相続させた上で三瀬百丸に入婿を命じたのであった。”(社会経済史学 第38)


(島田の名字を続けさせることが重要なので、長良が妊娠させていた女性を島田に娶らせ、その子<実は長良の娘>と三瀬百丸を結婚させて島田家を存続させた)


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 では肝心の鍋島直正の手紙に戻りましょう。

 手紙を出した相手は

■ 杠清右

■ 江原平右

■ 神太郎左

■ 大隠岐

■ 中野彦右

■ 福五郎右

■ 神源右


となっています。この書き方は「キムタク」みたいな略称になっているので、それぞれ、本来はもうちょっと長い名前ということになります。


 これらの人名を佐賀県立図書館の人名データベースと照合すると、


■ 杠清右衛門尉元滿

■ 江原平右衛門(尉)

■ 神代太郎左衛門(尉)

■ 大塚隠岐(守)か?

■ 中野彦右衛門(尉)

■ 福井五郎右衛門か?

■ 神代源右衞門(尉)


ではないか?と思われます。このうち、大隠岐と福五郎は推定です。(福地五郎〜という人名もあるため)


 さて、ここからです。


 この総勢7名、なにか事情があったとは推測できるのですが、その筆頭になっている「杠清右衛門尉」という人名で調べてみると意外なことが判明しました。


 次の資料は「佐賀県史料集成 古文書編 第17巻 (杠家文書)」からの引用ですが、ここではほぼ同じ人名で次のような記述になっているのです。



■ 杠清右衛門尉

■ 江原平右衛門尉

■ 神代太郎左衛門尉

■ 大塚新兵衛尉

■ 中野彦右衛門尉

■ 福嶋五郎右衛門尉

■ 神代源右衞門尉


 この文書によって「福嶋五郎右衛門」が確定し、なおかつ「大隠岐」が「大塚」であることが確定しました。さらに大塚隠岐がおそらく「大塚新兵衛」であることも判明したわけです。

 また、この文書は5月27日の直茂からの手紙の返事を、6月23日に書いたものの「案(控え?)」として杠家に残っていたものだと考えられます。

 さらにこの大塚新兵衛は、佐賀県立図書館の検索では「神代家文書目録」にしか登場しないため、確率的には「大塚隠岐=大塚新兵衛」で問題ないと推定します。



(つづく)