2025年3月4日火曜日

<129> ”大隠岐”の謎に挑む 〜神代家伝記より〜 その1

 

 これまでのおさらいです。私の先祖は、三潴郡絵下古賀村の「大塚」氏なのですが、一体全体この「大塚」一族は何者なのか?というところから物語は始まりました。


 そこで、この長ーいブログに書いていったとおり、あっちこっちを足掛け10年以上も調べ回ってある程度のことがわかってきたのですが、


■ 戦国時代の天正年間に

■ 八丁牟田には古賀伊豆(守)という武将がやってきて

■ 絵下古賀には古賀伊豆の部下である隠岐という武将がやってきた


というところまでが、江戸時代に書かれた寛延記(庄屋書上)によって判明したということになります。


 さて、この古賀伊豆と隠岐ですが、いずれも「龍造寺」の家臣とあるので、佐賀勢が筑後川を渡って三潴に駐屯していたようにも思えます。ところが、天下統一されてしまい、最終的には佐賀勢は川の向こうに引き上げてしまいますので、取り残されたような感じにもなっています。


 その後、古賀伊豆は小早川秀秋によって引き立てられ、筑後の大庄屋の3人のうちの一人となっているようです。これで彼はバッチリ帰農したわけですね。


 ところで、もう一人の「隠岐」ですが、絵下古賀の名字分布と、その軒数などから勘案して、この人物が私の先祖の可能性が高い「大塚隠岐(守)」ではないか?と推察してきました。


 大塚隠岐(守)は、神代長良の家臣で、戦で土生島城から逃れる時に自害しようとした長良を生かして脱出させた武将の一人として「北肥戦誌」や「歴代鎮西要略」などにも登場する武将です。


https://www.hb.pei.jp/shiro/hizen/habushima-jyo/

(土生島城は、隣の千布城の支城だったと思われる。千布城は、父の神代勝利の城)


 この段階で「隠岐」と「大塚隠岐」を結びつけてよいものか?という疑問が生じると思いますが、「隠岐」の年代と「大塚隠岐」の年齢・年代は矛盾がなく、なおかつどこの戦記を見ても「大塚隠岐が討ち死にした」という記述がないため、とりあえずは「同一人物と仮定しても、矛盾なく破綻はしない」ということになります。


 さて、ここからが最終段階。


 もともと、大塚隠岐(守)は、それほど功績がある武将ではないので、北肥戦誌や歴代鎮西要略にも、「さらっと」しか出てこないのですが、実は「神代家伝記」に、どうやら「大塚隠岐」のその後を描いたらしい記述があるのです。つまり、大塚隠岐は直茂時代まで生きているのです。

(神代勢は、その後、龍造寺家臣となり、鍋島家臣として引き継がれました)


 これがまた、「絵下古賀村に居着いてしまった隠岐は、大塚隠岐なのではないか?」という話と矛盾しないのですね。


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 では、いよいよその「神代家伝記」の内容へと踏み込んでゆきましょう。すこし注意が必要なのは、「神代家伝記」では、その前半部分で長良の部下を「犬塚隠岐守」と誤記の状態で書いており、非常にややこしくなっています。


 ただ、今回問題となる鍋島藩成立過程時期での記録は、正しく「大隠岐」と書いているので、そこは大丈夫と思われます。




 引用したのは「神代家伝記」のうち「下巻」の「九 犬法師丸殿御養子ノ事」のうち、最後尾あたりです。

 この章、非常にわかりにくく、犬法師丸の養子縁組に関して覚書というかメモみたいなことがいろいろ書き連ねてあるので、前後の文脈が飛び飛びになっています。


 犬法師丸とは、のちの神代家良であり、実は鍋島直茂の甥(=小河信俊の子)。なので、この時点で、神代家は鍋島の家臣としてガッチリ捉えられてしまうわけですね。


 そこで、肝心の文書はその折に、鍋島直茂が、7人の武将に対して出した手紙、ということになります。(5月27日付)


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 また、2枚めの真ん中以降は、「島田鶴栖」の名跡についてどのように処理するかの話が書かれているのですが、この島田鶴栖も、大塚隠岐が土生島城から神代長良を脱出させた時のメンバーで、おなじように北肥戦誌などに登場する武将です。


☆注☆

”島田鶴栖に娶らせていて、鶴栖の女子米女は実は長良の女子であった。長良は鶴栖の跡式を米女に中継相続させた上で三瀬百丸に入婿を命じたのであった。”(社会経済史学 第38)


(島田の名字を続けさせることが重要なので、長良が妊娠させていた女性を島田に娶らせ、その子<実は長良の娘>と三瀬百丸を結婚させて島田家を存続させた)


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 では肝心の鍋島直正の手紙に戻りましょう。

 手紙を出した相手は

■ 杠清右

■ 江原平右

■ 神太郎左

■ 大隠岐

■ 中野彦右

■ 福五郎右

■ 神源右


となっています。この書き方は「キムタク」みたいな略称になっているので、それぞれ、本来はもうちょっと長い名前ということになります。


 これらの人名を佐賀県立図書館の人名データベースと照合すると、


■ 杠清右衛門尉元滿

■ 江原平右衛門(尉)

■ 神代太郎左衛門(尉)

■ 大塚隠岐(守)か?

■ 中野彦右衛門(尉)

■ 福井五郎右衛門か?

■ 神代源右衞門(尉)


ではないか?と思われます。このうち、大隠岐と福五郎は推定です。(福地五郎〜という人名もあるため)


 さて、ここからです。


 この総勢7名、なにか事情があったとは推測できるのですが、その筆頭になっている「杠清右衛門尉」という人名で調べてみると意外なことが判明しました。


 次の資料は「佐賀県史料集成 古文書編 第17巻 (杠家文書)」からの引用ですが、ここではほぼ同じ人名で次のような記述になっているのです。



■ 杠清右衛門尉

■ 江原平右衛門尉

■ 神代太郎左衛門尉

■ 大塚新兵衛尉

■ 中野彦右衛門尉

■ 福嶋五郎右衛門尉

■ 神代源右衞門尉


 この文書によって「福嶋五郎右衛門」が確定し、なおかつ「大隠岐」が「大塚」であることが確定しました。さらに大塚隠岐がおそらく「大塚新兵衛」であることも判明したわけです。

 また、この文書は5月27日の直茂からの手紙の返事を、6月23日に書いたものの「案(控え?)」として杠家に残っていたものだと考えられます。

 さらにこの大塚新兵衛は、佐賀県立図書館の検索では「神代家文書目録」にしか登場しないため、確率的には「大塚隠岐=大塚新兵衛」で問題ないと推定します。



(つづく)