おかげさまで苗字研究の現場に長く携わることで、「果たして日本人とは何か」とか「家とは何か」とか、あるいは「なぜ自分はここに存在しているのか」といった根源的な謎について、ある程度の理解を深めることができるようになりました。
そうした苗字調べの中で、
「わたしたちは誰の子孫か」
という本質的な問題について、一定の答えが出たような気がします。この答え、気をつけなくてはいけないのは、次の2つのポイントがあることです。
1) 私達日本人は、ほとんどすべての人間が天皇家などの貴種の子孫であるが、DNAや血でその貴種性を受け継いでいるわけではない
2) 先祖と血と苗字というのは、おおきな「ラベル・枠・分類」のようなもので、一種のファンタジーであるが、そのファンタジーこそが重要な日本の枠組みを支えている
まずは1つめの解説です。
私は大塚家の人間ですが、もっとも最初に大塚を名乗った人物がいたとして、その人物の血を受け継いでいるというのは、とてもナンセンスです。
なぜなら、普通に考えて、両親2人からDNAや血を受け継ぐわけですが、一世代を経るごとに半分になります。大塚の遺伝子は、子供には半分しかいかないわけです。
そうして考えると、2世代ですでに4分の1の遺伝子や血しか受け継いでいないのに、4分の3は別の家のものなのに「大塚」を名乗っているという変なことになるわけで、つまりは
「大塚さんというものは99.99・・・・%の部分、初代の大塚さんの遺伝子ではないが、大塚という苗字を受け継いでいるのだ」
ということがわかります。
そうなると、先祖を辿れば源氏や藤原氏の子孫というのはうじゃうじゃいるわけですが、その貴種性はDNAや遺伝子によって担保されているわけではない、ということです。
これは天皇家ですらそうで、天皇家であっても常に「半分は天皇家でないDNA」によって受け継がれているということです。
ただし、これらの考え方は別の視点もあります。
天皇であれ、苗字であれ「次の世代がその名を受け継いだ時点で、その資格が満たされるのだ」
と考えることもできるでしょう。
となると、視点2ですね。
受け継がれるのは血やDNAではなく「枠組みやラベル」である、ということです。
99%以上大塚でなくても、大塚というラベルを受け継ぐその資格やプロセスが重要である
という考え方です。これがあるから、戦国時代などは、養子をとって家を継がせることが多々行われたわけですね。
そうなると、家を受け継ぐとか、どの家の子孫であるとか、先祖が誰であるというのは、そうした「ラベル」による一種の
ファンタジー
なのですが、(受け継ぐのが三種の神器であっても、あるいはラベルであっても似たようなこと)このファンタジーのようなものを受け継ぐプロセスこそが
「神話的に重要、大事、まげてはならないもの」
なのであって、科学的にどうかというよりは、信念信仰に近いものなのかもしれません。
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興味深い研究があって、
私たちは先祖のほとんどからDNAを受け継いでいない(現代ビジネス)
によると、先祖からDNAを受け継ぐことができる枠には限界があって、そこからDNAがこぼれ落ちることで、必然的に
「かなり初期の先祖のDNAはこぼれ落ちてしまっていて、受け継がれていないのでは?」
ということになるそうです。これは実に面白い話です。
しかし、また同時に、先祖が倍々に増えてゆくことを計算すると、膨大な数の先祖がいたわけではなく、
「同じ先祖が、かぶっている(DNAが混じっている)」
こともわかってきます。
この2つからいえる事は、
「数多くの遺伝子や血を、互いにかぶりながら残している優勢な人たち」
ばかりが途中で現れるようになる、ということです。
つまり、こうしたことができるのは、天皇家の子孫や貴族といった人たち以外にはありません。
だから、日本人のほとんどすべては「貴種」の子孫であるといえるわけです。
記事の中では、日本人の先祖は一人に集約できる、と書かれていますが、橘玲さんの「もっと言ってはいけない」では、その人物を天皇に推定してます。
これが、一種の日本の国体の真実であると言わざるを得ません。私達はおそらく、全員がどこかの時点での天皇家の子孫であるというわけです。
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