先日、佐賀藩にゆかりがある大塚さんからコメントがあったので、佐賀藩士系の大塚氏のルーツについていろいろ考えている。
そのうち、メモ代わりとして「葉隠」に出てくる「大塚氏」についての考察。
■ 大塚勝右衛門全正
・・・「北肥戦誌」によく出てくる大塚勝右衛門の子孫か?
・・・神代家(川久保領)の侍。寛文八年歿。享年五十二。逆算するとこの人物は江戸時代に入ってからの元和年間生まれということになる。
(權之助俊定の弟、左大夫令利の養子 「佐賀県近世史料第八編第一巻」)
■ 大塚権之助俊定
・・・全正の兄。武雄鍋島家の侍を経て白石鍋島家の侍大将。物成
百石。延宝六年歿。享年六十八。
■ 大塚左太夫良長
→ これらからの推察。
おそらく佐賀藩大塚氏の主要系譜は、「大塚勝右衛門全正」がその祖であろうと思う。これは神代家の資料でも確認できる。(神代家文書目録)
一次資料としての佐賀藩大塚氏の系譜は、「勝右衛門」からしか確認できなさそうだが、北肥戦誌の内容から考えると、神代家に仕えていた
「大塚隠岐」
らの一族と考えられる。
勝右衛門全正が戦国時代の人間ではないので、ちょっと難しいのだが、大塚隠岐らの世代が神代家に仕えていて、勝右衛門全正がその次の世代に相当すると思われる。
ここで検討したいのは、大塚隠岐ではなく、おなじ北肥戦誌に出てくる「大塚勝右衛門」との関係である。
こちらの「勝右衛門」は
■ 龍造寺隆信の家臣。
■ 天正5年頃、有馬氏との戦いに功績を上げている。
■ 鍋島信生が肥後和仁城攻めをしている際に、同行している。
■ 天正7年、筑後山下城(蒲池志摩守鑑広の城・八女市)攻めにて一番槍
などがわかる。
神代家は元亀2年(1571)には龍造寺に降っているので、大塚勝右衛門がもともと「神代家臣」であったとしてもつじつまは十分に合う。
(長良自身は天正9年に、45歳で没している)
大塚隠岐の年齢、年代との突合せはすでに検討しており、
https://samurai-otsuka.blogspot.com/2014/06/blog-post_12.html
において
「大塚隠岐守が、長良より年上の家臣だったとして、天正9年時点で最大55歳程度、年下の家臣だったとして、最少35歳程度と想定できる。」
としている。
そうすると、
□ 神代家臣の大塚隠岐は天正年間に筑後へ移動してそのまま隠居した。
□ 隠岐の家督を継いだか、その次の世代が「大塚勝右衛門」
□ その次の世代が”神代家臣”の大塚勝右衛門全正
□ かくして佐賀藩士大塚氏の系統ができあがる。
■ ちなみに、佐賀藩には「大塚左京」系の大塚氏も存在する。
(武藤少弐興亡史)
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