このブログを見てくださっている方からメールを貰って、重要な手がかりが見つかったようなので、まずは書き残しておきます。
もはや、当ブログでは有名人の一人である「古賀伊豆」ですが、最終的には吉井の大庄屋になってゆく人物です。
お知らせくださった方のお話では、「星野村史」に、その後の古賀伊豆の様子が描かれているということなのですが、「星野村史」はマイナーで、国会図書館でも「館内閲覧のみ」になっていて、さらに古書店でも一部しか流通していないようなので、
まーったくの手つかず
だったのは残念無念! お知らせくださった方に感謝感激です。
というわけで、「原本未確認」ながら、データ分析をしておきましょう。
■ うきは市吉井「円応寺」に古賀伊豆のお墓がある。
■ お墓は寛政になってから、一族の子孫が建立したものらしい。
ありがたいことに現地の墓碑に書かれている内容をお知らせくださったので、それも転載しておきます。
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(正面)
光徳院繁叟知栄居士
(正面以外)
光徳院、姓は古賀、名は伊豆。星野中務大輔調胤實十六世の苗裔にして、同苗伯耆守正實の三男也。
龍造寺隆信に扈従して戦功数有り。隆信率いて西筑を治めて後、居士を三潴郡八丁牟田の館に留めて乱暴より衞ら令む。
隆信戦死の後、移居して吉井に於ける時、小早川隆景領を合わせて当郡の主也。
古賀・石井・鳥越の三士を召して大保正と為し、家譜に許す。故に贅せず。
此に天正十九年卯二月十二日卒す。今寛政十二庚申、二百十年にして一族三十餘人を得たり。
再び改めて石碑を建て大生禅刹に就きて追福す、云々。
誉めて曰く
温恭清廉 廣古富今
赫々光徳 山高水深
孝孫某 甲篆謹書
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(Yさま!ありがとうございます)
まず、古賀伊豆は「星野中務大輔」の子孫である、という話が出てきており、これは他では見られない記述ですね。(新情報)
星野氏について詳しい方のページでは
星野中務大輔胤実が、初代で鎌倉時代の人ということになっています。筑後国生葉郡星野を領地として「星野」を名乗っているので、星野村のめちゃくちゃ「地元の人」ということになります。
星野氏の祖先は、源助能(黒木大蔵大輔)の猶子で、実は徳大寺実定の子であり、嘉禄年間に星野に来て、天正年間まで勢いがあったとも。
星野氏
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%9F%E9%87%8E%E6%B0%8F
うーむ。正直なことを言えば、感触としては「とっても不可思議な感じ」という印象を抱きます。
まず、古賀伊豆の先祖は星野氏だとすると、「最初から星野にいた星野氏」であり、なぜか古賀伊豆だけが佐賀方面へ飛んでいってしまい、そこで龍造寺に仕えて、「八丁牟田に赴任」したのに、また「星野(吉井・生葉・うきは方面)」に戻ってきた、という感じになるからです。
話としては有り得そうですが、では「なんで古賀を名乗るの?」といったあたりが、少しピンとこない感じもあります。
ただ、史実としては、ほかでも確認できる「八丁牟田の館に赴任させて護衛させた」的な話は、三潴側でもそう認識しているので、ここは合っているでしょう。
その後に「大庄屋(大保正)」になった点も、問題はなさそうですね。
もちろん、寛政年間になって「先祖を顕彰する」形でのお墓の碑文なので、なんらかの意図や演出が隠れている感じはしますが、たとえば
■ 姓は古賀、名は伊豆
という認識しかしていないのであれば、「それしか伝わっていない」ということを意味します。
このあたりは、源氏もしくは徳大寺家の「藤原氏」を本姓としたいところですし、「名前が伊豆」というのも、不可思議です。
たとえば大塚隠岐は、官位風の通称としては「隠岐・隠岐守」ですが、「新兵衛」という名が残っているらしい記録もあるので、直接の子孫が書き残したのであれば、「通称の名」「いみな」がどちらも伝わっていないというのは、残念な気もするわけです。
なんとなく、雰囲気としては、「この地元の領主たる経緯があるのだ」ということを主張したいがために「星野」と繋げたような感じもあるような、ないような・・・(苦笑)
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そこで「伯耆守正実の3男」という記述にも注目してみましょう。
福丸城
https://cmeg.jp/w/castles/8751/pins/28685
このあたり、太宰管内志の略記があるのですが、
「星野中務大輔吉實は戦国時代の人で、こ の頃豊後の大友氏と肥前の龍造寺氏と常に争って戦乱が止むことがなかった。吉實自立していずれにも偏せず。龍造寺隆信が黒木に侵入するや、星野氏、黒木氏同盟して猫尾城を守る。大友氏は偽って竹尾外記なるものを猫尾城に入れ、奸計をもって吉實を殺す。この後、黒木氏は龍造寺氏に属す。常陸介親忠跡を嗣ぎ、驍勇を以て 名がある。天文元年大友義鑑の兵が来攻する時、妙見城を守りて天文3年(1535年)9月13日に死す。その子伯耆守正実は福丸城に在ったが大友勢に攻められて周防に逃る。この後、星野氏は大友氏に属し、右衛門太夫重実は、大生寺村立石城の門注所氏を逐ってその跡に住む。重実死する後福丸城に高実がいたが大友氏の命により蒲池氏の鎮泰(母は星野氏の娘です)を養子に入れて星野氏を嗣ぎ白石城に居る、後福丸に移り肥後勝山にて戦死する。右衛門大夫鎮虎は、白石城に居たが龍造寺氏に襲われて豊後に奔り弟鎮胤(吉実)は初め福丸城その後高取(鷹取)城に居たが、やがて島津義久に属し、天正14年(1586年)8月25日筑前高鳥居にて討死、次の弟鎮元(吉兼) も同じく戦死する」
となっています。
仮に伯耆守正実の子が古賀伊豆だとしましょう。 そういえば源助能は「黒木大蔵大輔」なので、黒木氏も関係者です。
武家家伝 黒木氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/t_kuroki.html
私のおなじニュータウンにおられる心の師匠 播磨屋さん の見立てでは、「河崎・星野・黒木」は調党(本姓=調宿禰)となっていて、さらに謎が深まります。
(碑文にも調胤実と書いているのに?!)
話を戻します。
龍造寺が攻めてきて、黒木氏は龍造寺側についた。これはOK。
そして、伯耆守正実は、大友勢に攻められて周防に逃げた。はいはい。
その後、星野氏は大友に従った。
大友の命令で、星野には蒲池の養子の子が入った。
その後龍造寺に襲われて、島津に助けてもらおうとしたが、星野本家は戦死。
うーん、では古賀伊豆(つまり、伯耆守正実の子)がどうなったのかは、話を整理してもさっぱりわからんのです(苦笑)
(とにかく、この時期の龍造寺隆信<肥前のくまモン>は、無茶苦茶な動きをするので、読み解くのが大変!)
播磨屋さんバージョンの時系列も、引用しておきます。
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天正七年、龍造寺隆信は大友氏の衰退を好機として筑後に進出し、山下城の蒲池鑑広を攻略、さらに伊駒野城の河崎鎮堯を降した。この状況をみた黒木兵庫助*は、龍造寺の陣にいくと降伏した。こうして、筑後の諸将は続々と龍造寺氏に降り、筑後十郡は鍋島飛騨守信昌(信生→直茂)が隆信の代官として支配するところとなった。
かくして筑後を征圧した龍造寺隆信は肥後北部まで支配下におき、三州二島の太守と呼ばれるまでに勢力を拡大した。一方で、その残忍性があらわれるようになった。天正十年、隆信は柳河城主の蒲池鎮並を謀殺したが、黒木兵庫頭家永はこれに怒って隆信に逆意を示した。猫尾城は龍造寺政家・鍋島信生らに攻められたが、草野家清の仲裁で和睦となり、家永は嫡子四郎丸を人質として龍造寺に送った。その後、家永の弟の蒲家益種が戦死しているのは、兄家永とは別に龍造寺氏に反抗を続けていた結果であろう。
天正十二年、有馬氏が龍造寺氏の麾下から離れた。これは、さきの蒲池氏の謀殺をみて、つぎは自分との危惧を抱いた結果、島津氏をたのんで龍造寺氏から離反したものであった。隆信はただちに有馬攻めを決して出陣し、島原半島の沖田畷で島津・有馬連合軍と戦った。隆信の率いる兵は五万余騎といい、一方の連合軍は三千余であった。しかし、結果は数に奢った龍造寺軍の無策もあって、連合軍の大勝利となり隆信は戦死を遂げてしまった。
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この話を見ていると、ちょうど我が「大塚家」の祖であろう「大塚隠岐」がなぜか天正10年前後の極めて「狭い時期」にしか、絵下古賀に来ることができないという話を思い出すのですが、もし、古賀伊豆が星野一族だったとしたら、まーったく同じような話に巻き込まれている感じもします。
つまり、蒲池鎮漣がらみというか、蒲池家前後というか、そのあたりで「龍造寺から離反したくなる」あるいは「せざるを得なくなる」ような雰囲気がビシバシ感じられるわけですね。
というわけで、あまりにも脳みそが沸騰しそうな展開ですので、いったんこれくらいで終わりにしておきます。
重要なのは、
「古賀伊豆が八丁牟田に赴任したのは、龍造寺隆信の命令であろうこと」が、まず今回確認されたのと、「天正年間に、まずやってきた」ことにも、蒲池がらみのゴタゴタが裏にありそうだ、ということです。
これは古賀伊豆・大塚隠岐、両方に共通して言えることですね。
そして「古賀伊豆は、(なぜか)吉井へ移動」「大塚隠岐は、そのままとどまった」わけです。
このあたりの経緯も、まだ謎は残ったままです。
(とりあえず、つづく)